【小説】雨色の香りを君に届けて

 「すごい雨だね」

 暗い窓に映る自分を見ながら画面の向こう側へと話しかけた。ガラスに当たる大粒の滴の音に負けないよう、耳元にスマートフォンを押し付ける。

 「この前会った時みたいだな」

 耳元で彼がささやく。もっと彼の声をちゃんと体の中に入れたくて、窓から離れ、ベッドへ寝転んだ。

 彼と最後に会ったのは一ヶ月前。その時も今日のような大雨だった。遠くへ出かける予定だったが、世界の都合と大雨は、私たち二人に家で過ごすこと以外の選択肢を与えなかった。

 ずっと二人で家の中で肌を寄せ合った。一つの毛布にくるまって見る映画はどんな映画館よりも居心地が良くて、小さなテーブルで食べる料理はどんなレストランよりも美味しかった。ベッドは狭いけど、彼が隣にいるとどんなホテルよりも温かかった。

 そんな日が今はとても恋しい。どこかに行かなくても、一緒にいるだけで良いのに。それができないことが寂しかった。

 「何してた?」

 耳元で彼が囁く。その声をついこの前まですぐ近くで聞けたのに。少し空白が生まれる。口元が締まっていた。

 「あ、うん。本読んでたよ」

 彼と付き合って、本を読むことが増えた。自分の知らない作家を教えてくれて、物語の面白さを知った。読むのは遅いけど、少しずつ自分の世界が広がっていく気がして。もっと彼の見ている世界を知りたくて、彼にたくさん小説を教えてもらった。

 彼に読んでいる本のタイトルを伝えると、向こう側で彼が笑う音が聞こえた。彼が物語の様子を聞いてくる。私が話の流れを伝えると、ゆっくりと話を聞いてくれる。物語の未来が分からないように、優しく私の話を聞きながらそのお話の面白さを一緒に話してくれた。

 「ほんと、小説みたいな状況だよな。今って」

 彼と最後に会った数日後に、世界は突然静かなものになった。誰も悪くないのに、私たちの距離は少し離されることになった。今まで過ごした時間がとても大切に思える。連絡の回数も、あまり得意でなかった電話も、今まで以上にするようになった。

 少しでも彼の温度を感じたくて。彼の音でも空気でもなんでも。近付けないのは分かっているけど、近付きたい。こうして耳元で聞こえる彼の声をもっともっと聞きたくて、画面を耳に押し当てて、反対の手は気づかないうちに毛布を握り締めていた。

 外に出たくても出れないなんて。たった30分の距離でさえ、会いにいけないなんて。このまま私たちはどうなってしまうのだろう。少しずつ少しずつ彼の温度も匂いも薄くなってしまうような気がする。

 「そういえば、マスク届いた?」
 「ううん、まだだと思う」

 外に出ることが減り、ポストを確認することも少なくなった。

 「あとでポスト見てみ?俺もしばらく見ないうちに入ってたから」

 ポストを確認することがイベントになるなんて。小説の世界でも書かれないだろう出来事がおかしくて少し笑った。久しぶりに笑えた気がする。私の笑う声を聞くと、彼も向こう側で笑ってくれたようだった。

 長い電話だった。その間も部屋の外では雨雲が冷たい音楽を奏でていた。先ほどまで聞こえていた彼の声は無くなり、部屋には私一人だ。寂しい。そう思った。

 せめて、彼の言ってくれたことを思い出そうと、部屋のドアを開けた。2階から階段を使いマンションの玄関へ向かう。久々に感じる風を切る感覚と一緒に冷たさが首筋を撫でた。

 誰もいないエントランス。他の住民もあまり確認していないのだろう。ところどころでチラシがはみ出している。雨に濡れた青い世界には不釣り合いな仰々しい色合いだ。自分の部屋のポストを開けると、ピザや寿司の配達チラシが重なっていた。手探りでそれを掴むと、その中に封筒の形を感じた。

 「なんだ、あるじゃん」

 誰もいない空間で誰に向けてでもなく呟いた。重なりあった邪魔なチラシをどかしていく。ニュースで見た青い封筒が現れるかと思った。しかし私の手の中に現れたのは、思っていたものとは正反対の明るくて黄色い封筒だった。

 差出主は、ついさっきまで耳元で話しかけてくれていた人物だった。

 急いで部屋に戻る。階段を駆け上がる。久しぶりに走ったかもしれない。チラシを玄関に放り投げ、ベッドに座りもう一度封筒を確認した。やっぱり、そこには彼の名前と、下手っぴな字で私の名前が書いてあった。

 丁寧にハサミで封を開けた。ゆっくりと便箋を取り出すと、彼の匂いがした。いつも隣にいて感じる香りだ。最後に感じたのは大雨の日。バスタオルで濡れた髪を拭きながら、隣で話をしてくれた。そして優しく私の唇に触れてくれた。

 その香りが彼のことを近くに感じさせた。さっきまで遠かったのに。

 初めて手紙をもらった。彼がこんなにかわいい字を書くなんて知らなかった。封筒と色を合わせた淡い黄色の便箋に、彼の言葉が並んでいる。

 体が少しずつ温かくなっていく。冷たかった部屋が少しだけ明るく、水色だった空気がこの手紙の色に染められていくようだった。一文字一文字、大切に追いかけていく。この言葉を綴っている時の彼のことを思い浮かべながら。滲んだ文字や間違えたペンの跡を見るたびに愛おしくなる。

 ずっと遠くに感じていた彼の温度を少しだけ感じられた。会えないけれど、こうして近付くことができるなんて。
 もっと彼の匂いを感じたくて、手紙に顔を近付ける。紙の香り、インクの香り。それと共に、雨の日に隣にいた香りが強くなった。

 早く会いたい。それがいつ叶うかも分からない。だけど、今はこうして繋がりを信じるしかないのだ。彼の香りが私にそう伝えてくれた気がする。

 何回も何回も手紙を読み返した。読むたびに少しずつ体の奥が温かくなっていく。とても幸せだと思う。一人でもこうして笑うことができるのだから。

 返事をしよう、早く書きたい。そう思った。
 でも、それよりも早く伝えたくて、彼の書いた言葉に向けて口を開いた。

 「私も大好きだよ」と。



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家族や大切な人に会えない時間が続いていますが、今はそれがお互いにとって一番の距離のはずです。できる形でお互いを思いやって、心の距離を近付けられたらいいですね。

家族のお話も書いているので、良ければご一緒に読んでいただけたら嬉しいです。

大久保忠尚


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