【小説】二枚のマスクとおじいちゃん

 「あれは、ワシが三十二の頃じゃ」

 二〇八〇年四月。空中ビル群とエアタクシー、配送用のドローンが大空に浮かぶ様子を背景に、ソメイヨシノが散り八重桜が咲き誇る縁側でじいちゃんは突然語り始めた。

 「あの年は、そう。幻の東京オリンピックの年じゃった」

 普段は普通にですます調で話すくせに、突如爺さんが昔懐かしむ口調で話し始めたじいちゃん。自分に酔っていやがる。突っ込むのも面倒だったので、そのまま俺はばあちゃんが出してくれた饅頭を口に放り込み、話を聞いてやることにした。

 「幻というのはのう。あの年は大きな感染病が流行って、開催が次の年に順延したんじゃ」
 「知ってるよ、コロナだろ?」

 歴史の授業で習ったよ、そんなことは。世界的な感染病。当時でも技術や医療が発展していたというのに、外出自粛だなんだ、古典的な方法が取られていたと教師AIが教えてくれた。ただ、その古典的な方法が結果的に正解だったということは、今の分析でも分かっているそうだ。

 「お前も物知りじゃのう。そう、コロナ。あれのおかげで、仕事も減り、経済も乱れ、人生がいっぺんに変わってしまったようじゃった」

 じいちゃんがどんな仕事をしていたかどうかは分からないが、なかなかにだらしなく、ばあちゃんの世話になっていたことは母ちゃんから聞いている。このじじい、色々語ってるけど、そもそも仕事してたのか?

 「ばあさんと二人三脚で、なんとか家計を回したんじゃ。外出自粛の中、暇さえあればウーバーイーツ。命をかけて仕事をしてたんじゃ」

 ウーバーイーツは今でもあるが、当然ドローンで配達されている。そもそも料理自体、自動調理システムが入っている家であれば、レストランのレシピさえ購入してしまえば家で再現できるためドローンする必要もないけど。というか、ウーバーイーツするくらい本業なかったってことか?そりゃ、ばあちゃん大変だろうな。

 「ばあさんは、テレワークしておった。午前九時から午後の五時半勤務」

 ありがとう。ばあちゃんのおかげで今の俺がいるよ。てか、よく就業時間まで覚えてんな、じいちゃん。

 「ばあさんは在宅勤務とはいえ、勤務時間中は一切口を聞いてくれんかった」

 このじじい、どんだけ暇してたんだ。 

「今じゃ、ドローン配達が当たり前じゃが。昔は人が運んでおったんじゃよ?信じられるかえ?」

 当時は外出自粛で店舗も休業し、たくさんの小売店や飲食店が潰れていったらしい。その中で同時に当時のネットショッピングが拡大し、同時に配送が盛んになったそうだ。ただ当時はドローン配達もなく、とにかく人が配り歩いていたらしい。信じられない。しかし、これを機に無人配達システムが生まれたそうだ

 「外にも出れず、ウーバーイーツも毎日できるわけでもなく、どうぶつの森がはかどったわい」
 「なに?どうぶつの森って?」
 「ちょっとした癒し系ゲームじゃ」

 なんだよ、癒し系ゲームって。『MECHAギガ!エイリアンハンター』みたいなやつか?まあいいや。とにかく、じじい、ゲームしてないで仕事しろや。

 「あれから六十年経ったと思うと信じられんのう。ここまで平和に過ごせていることに感謝せな」

 教師AIが言っていたが、あの年の感染症は人類史に残る驚異的だったらしい。原始的ではあるが、外に出ない、人と接しないという方法を徹底した結果、なんとか収束に至ったということだ。そういう意味では、どうぶつの森とかいうゲームで外に出ず家で過ごしたじいちゃんはある意味正しいのかもしれない。

 「お前も、もうそろそろ立派な大人じゃろう。渡しておこうと思ってのう」

 そう言ってじいちゃんはゆっくりと立ち上がった。電子サポートちゃんちゃんこ・ステテコのおかげで、動きは軽やかだ。何事もなく縁側から居間へ向かうと、小さな封筒を持って戻ってきた。

 「お前にこれをやろう。何か困ることがあった時に使いなさい」

 じいちゃんはその封筒を俺に渡した。とても古く、ところどころ敗れた封筒。その表には「マスク在中」と書いてあった。

 「マスク?なに?マスクって?」
 「そうじゃろ。お前はマスクなんて知らんもんなぁ」

 急に調子に乗って語り出しそうな雰囲気だ。ムカつく。

 「マスクというのはのう。口や鼻を覆って、ウィルスが体に入らないようにするものじゃ。当時はその封筒が全家庭に配られた」

 口や鼻に原始的な壁を作ってウィルスの侵入を防ぐなんて考えられない。今の時代は、玄関でエアシャワーを浴びれば体に幕ができて、ホコリもウィルスも花粉だってつかないようになる。そもそも花粉なんて品種改良で都市にある植物からはほとんど出ないようになっている。

 「一世帯二枚。そのマスクがワシらの命をこの時代まで繋いだんじゃ」

 そうか。このマスクが。って、この封筒、開いてねえし。使ってないじゃんか、マスク。

 「じいちゃん、これ開いてないけど」
 「うん。ワシはどうぶつの森に夢中じゃったから」

 そっか。外出てないんだ、このじじい。

 「お前にそれをやろう」
 「いや、なんで?」
 「それが配られて六十年。未開封ってなかなかレアじゃから。ヤフオクとかに出したら良い値が付くはずだから。お金に困ったら、ね」

 ヤフオクってなんだ?分かんないけど、フリマサイトってこと?こんなの売れるのかな。ボロボロだし。

 「困った時に使うんじゃよ。絶対に開けるんじゃないよ。開けたら価値が減るからね。CDも未開封の方が価値があるからね」

 CDってなんだよ。とにかく、じいちゃんは未開封のままこれを俺に持ち帰って欲しいらしい。どうでもいいけど、俺はじいちゃんから受け取りカバンの中へ入れた。

 家に帰り、母さんへその封筒を見せる。

 「あんたまた、変なものお父さんからもらってきたの?」

 そう言いながら、封筒を色々な角度から覗き込むと、当たり前のように封筒を破った。

 「あ、開けちゃった」
 「あんたマスクって知ってる?」

 そう言いながら、中から紐がついた白い布を二つ取り出した。これがマスクか。

 「こんなので病気防いでたんだからね。びっくりよ、ほんと」

 母さんはペンを取り出し、布の部分にばつ印を書いたかと思えば、付いていた二つの紐を両耳にかけた。顔の前に白い布がかぶされ、口元にバツ印が現れた。

 「はい、ミッフィーちゃーーーん」

 なんだそれ。
 なにはともあれ、じいちゃんが家に籠もっていたおかげで、そしてこのマスクがあったおかげで?俺は今こうして過ごせているのかと思うと、このマスクの存在もいい加減にできないのだな、と思う。

 そんな二〇八〇年四月の日記。



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大久保忠尚

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