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何がトラウマとなるのか

※別の場所で書いていた記事を専門家むけにリライトしたものとなります。

トラウマとは何か

「トラウマ」は、もうすでに一般に多く広まった言葉になっている。しかし一般語彙としてのトラウマは、「過去にあった嫌な出来事」ぐらいの使い方をされてしまっている。一方で、臨床心理学/精神医学では強い衝撃によって生じた心の傷のことを「トラウマ」と呼ぶ。

ポイントは、一般語彙としてのトラウマとは、ありとあらゆる出来事がトラウマになりうるものなのであるが、一方で臨床心理学/精神医学においてのトラウマとは、それが生む症状や困難さに応じて、そう定義できる出来事はある程度決められている、ということである。

そのためここでは、臨床心理学/精神医学の中で扱うトラウマ概念について、「PTSD」「複雑性PTSD」「発達性トラウマ障害」という三つを取り上げ、それぞれが示しているトラウマとなる出来事の基準とその具体例について取り上げる。

ところでこの三つは、DSMとICDという、二つの精神疾患の診断基準のリストの中に入ったり入っていなかったりするので、注意が必要である。

この診断基準のリストはお薬の使用や保険制度の利用に用いられるのであるが、ほとんどの疾患がトラウマのせいとなっていた(神経症概念)時代の反動から、極力トラウマの概念を採用したくない(操作的診断基準)というベクトルがあることを心に留めておくとわかりやすくはなると思う。その辺りの背景については、この記事の中で簡単にだが触れている。

それではまず、PTSDにおけるトラウマの出来事から見てみよう。

PTSD(心的外傷後ストレス障害)におけるトラウマ

PTSD(心的外傷後ストレス障害)はトラウマが生み出す疾患の中で基本となるものである。PTSDは、DSMとICDの両方のリストの中に入っている。

PTSDとなるトラウマの基準

PTSDと診断されるためには、その出来事が「実際にまたは危うく死ぬ、重傷を負う、性的暴力を受ける出来事に晒される」である必要がある。これがPTSDが想定する「トラウマ」であると言える。

こうした出来事を実際に体験したり、他人に起きた場面を直接的に目撃、あるいは家族や親しい友人に起こったと耳にした後、フラッシュバックやトラウマを思い出す場面や状況を避けるなどの症状が1ヶ月以上続くことで、PTSDと診断されることになる。

反対にいうと、PTSD症状があってもその原因と推測できる出来事が「実際にまたは危うく死ぬ、重傷を負う、性的暴力を受ける出来事に晒される」ものでない限り、そうとは診断されないということになる。しばしばPTSDと診断されていたとしても、こうした定義に当てはまらないのではないのか?という症例を見かけることはあるが、原則としてはこうなっている。

PTSDとなるトラウマの具体例

それではどのようなものが具体例として想定されているのか。DSM-5などからちょっと引用してみる。

  • 生命を脅かされるような事故や自然災害にあった

  • 身体への攻撃や強盗被害にあった

  • 実際に性的な被害を受けたり、あるいはその脅威にさらされた

  • 目の前で他人が命を落としたり、あるいは落としそうになるような場面を目撃した

  • 家族や親しい友人が激しい暴力や性的な被害にあったと聞かされた

などなどである。

度々「学校でいじめにあった」「会社でパワハラを受けた」ためにPTSDと診断されたという事例を目にするが、こうした出来事は非常に強い苦痛を生じさせ、場合によってはフラッシュバックなどの症状が生じることもあるが、この基準に照らすとPTSDと診断されることはまずないといえるだろう。DSMに則ると、その場合は適応障害と診断されることになる。

しかしPTSDと診断されなかったからといって、本人の主観的な辛さが減じるというわけではないので、その点については十分に注意したいところである。

複雑性PTSDにおけるトラウマ

複雑性PTSDは最新版のICD-11に収録された診断基準である。その一方で、DSM-5にはそれが収録されていない。トラウマ体験が長期に渡ると、PTSD症状に加えてさまざまな問題が生じることから、ICDに収録された精神疾患となるのが、この複雑性PTSDである。

複雑性PTSDとなるトラウマの基準

複雑性PTSDと診断されるためには「極度の脅威や恐怖を伴い、逃れることが難しいか不可能と感じられる、強烈かつ長期間にわたる、または反復的な出来事に晒される」ことが前提となる。これが複雑性PTSDが想定する「トラウマ」であると言える。

その出来事の後にPTSD症状が存在し、かつ気分の調整障害と対人関係の障害、そしてネガティブな自己概念の症状があることで複雑性PTSDと診断される。

複雑性PTSDとなるトラウマの具体例

複雑性PTSDで想定されるトラウマの具体例としては、これらに限定されるものでもないとも述べられているが、次のようなものが挙げられる。

  • 誘拐などの犯罪被害に遭い、長期間拷問を受けた

  • 慢性的な児童虐待の家庭の中で育った

  • 長期間にわたって家庭内暴力に晒されて逃げることができなかった

  • 反復的な身体的・性的虐待を受けていた

複雑性PTSDは、まだ診断基準として採用されてから日が浅いために、正式な運用がどのようにされるかは不明点が多い。しかしながらPTSD自体のトラウマの範囲がとても狭いこと、何度もDSMへの収録が見送られてきたことを考えると、あまり広範囲に適用されるとは考えにくいと思われる、のだが。

基本的にはICD-11で複雑性PTSDと診断された人は、DSM-5においてはPTSDと判断されるはず、である。しかし必ずしもそうは言えない事例も生じてくるかもしれない。報道されたものでまさにこの点が問題となったようなものがあったが、それについては別の機会で取り上げようと思う。

発達性トラウマ障害におけるトラウマ

PTSDも複雑性PTSDもそうなのであるが、トラウマ由来の精神疾患を診断基準の中に納めようとするのであれば、どうしてもそれらが操作的診断基準を採用している以上、その範囲を限定されてしまう傾向にある。

しかし、過去に負った心の傷から現在の生きづらさを抱える人たちは他にも多く存在している。

これに対して近年用いられるようになったのが、ヴァン・デア・コークによって提唱された発達性トラウマ障害である。これはトラウマによって生じる様々な症状や問題行動を包括的に説明する概念である。コークはDSM-5にこの収録を働きかけたが、残念ながら(ある意味では必然であるが)却下されてしまった。

しかし発達障害ライターの宇樹義子氏の秀逸なブログ記事に表現されているように、発達性トラウマ障害は診断基準には当てはまらないものの「困っている当事者を助ける/困っている当事者が助かるために仮定しておいたほうがよい枠組み」であると言える。正式な診断名ではないが、それに準ずるものとしてここではそれを取り上げることとする。

発達性トラウマ障害となるトラウマの基準

コーク自身によって示された診断基準によれば、発達性トラウマ障害は「①繰り返される過酷な人への暴力を体験したり目撃したりすること」および「②養育者が何度も変わったり離れたりすること、あるいは過酷で執拗な心理的虐待によって、保護的な養育がなされなかったこと」が前提となる。これが発達性トラウマ障害が想定する「トラウマ」であると言える。それに加えて、心身にさまざまな症状が出現することで診断が可能であると言われている。

発達性トラウマ障害と複雑性トラウマ障害の診断基準の違いとして、コークの「過酷で執拗な心理的な虐待によって、保護的な養育がされなかった」という部分があげられる。

発達性トラウマ障害となるトラウマの具体例

花丘ちぐさ先生による著作では、これらが「不適切養育」としてまとめられており、発達性トラウマ障害の具体例としてとてもわかりやすくなっているので、以下で取り上げる。

  • 思いやりのない言葉かけをする

  • 子どもに手を上げる

  • タイミングよくニーズを満たさない

  • 子どもの友人関係に介入しすぎる

  • 子どもの好みや服装などに介入しすぎる

  • 過干渉で子離れできない

  • 否定的な言動が多い

  • 抑うつ的で子どものニーズに応えない

  • 過度の心配性

  • 必要なケアをしない

  • 無理にがんばらせる

  • 子どもに大人のグチを聞かせる

  • 勉強を強要する、脅す

  • きょうだいを比較する

  • 子どもに夢を託して過度のトレーニングを強いる

  • 成績で判断し人をランク付けする

  • 倹約の度が過ぎる

  • 子どもの夢を否定する

  • 子どもに嫉妬する

  • 子どもの性的な成長を喜ばない

  • 不適切に性的な情報に触れさせる

  • 子どもに性的な関心を持ち言動に表す

  • きょうだい間の性的な加害行為に介入しない

などなどである。この数だけを列挙しても、PTSDや複雑性PTSDに比べて、非常に広い概念として用いることが可能となっていることがわかる(コークの定義に則ればもう少し狭いものかもしれないが)。

それが故に、これらの事柄があったから即、発達性トラウマ障害だ、と判断することは躊躇しなくてはならないだろう。概念が広い分、それだけ別の精神疾患の発症と重なる可能性が高くなるからである。トラウマ関連疾患は因果論的推定を含む。しかしそれはあくまで推論であり、決定論的なものたり得ないのである。とりわけ一個人を扱う臨床であれば、尚更そうであろう。あくまで作業仮説としてそれを留めておく意識は必要である。

しかしながら、今までは気づかなかった生きづらさや心身の不調の背後に、こうした幼少期からの問題が存在しているかもしれない、ということを気づくきっかけとして、こうした発達性トラウマ障害の概念は有用であることは間違いないと思われる。

発達性トラウマ障害とアダルトチルドレン・愛着障害

最後に、他の概念についても触れておきたい。

アダルトチルドレンや愛着障害という言葉が、近年用いられるようになった。これらは、発達性トラウマ障害と同じく正式な診断名ではない。DSMやICDといった診断基準では基本的に病因論を採用しないために、「小トラウマ」「不適切養育」「愛着外傷」という明確な原因を想定する場合に、こうした診断名にならない概念が当事者や支援者に必要とされ、登場したものである。

どの概念を採用するのか、それは個人の納得や支援者の見立てによっても異なるだろうが、基本的に発達性トラウマ障害の概念によって包摂されるように思われる。

ACE(小児期逆境体験)における「トラウマ」

発達性トラウマ障害と似たような概念としてACE(幼少期逆境体験)というものがある。これについては別の場所で取り上げようと思うのでここでは詳述しないが、より出来事にフォーカスしたものとなっている。これはACEが想定する「トラウマ」であると言える。

ACEのチェックリストを以下にあげておくことにする。

  • 親か同居している大人から頻繁に、または日常的に罵倒、侮辱、悪口、屈辱を受けていたか?もしくは危害が及ぶかもしれないという恐怖を与えらていたか?

  • 親か同居している大人から頻繁に、または日常的に押されたり、つかまれたり、叩かれたり、何かを投げつけられていたか?

  • 大人か、少なくとも5歳以上の年長の人間から性的に触られたり撫でられたりしたか、無理やり相手の身体に触らせられたことがあるか?もしくは触られそうになったり、不適切に触られたり、性的に虐待されたことがあるか?

  • 頻繁に、または日常的に、食事が十分ではない、汚れた服を着なければならない、自分を守っている人がいないと感じていた?もしくは親のアルコールが薬物依存により、面倒を見てもらえなかったり、必要なときに病院へ連れて行ってもらえなかったりしたと感じていたか?

  • 離婚や別居、その他の理由によって実の親と別れた経験があるか?

  • 母親(継母)は頻繁に、または日常的につかまれたり、叩かれたり、物を投げつけられたりしていたか?ときどき、頻繁に、または日常的に蹴られたり、噛みつかれたり、拳や物で殴られたりしていたか?もしくは繰り返し数分間にわたって殴られたり、銃やナイフで脅かされたりしていたか?

  • 酒癖が悪い人、アルコール依存症者、または薬物を乱用している人と同居していたか?

  • 家族にうつ病の人、精神疾患を抱えた人、自殺未遂を起こした人がいたか?

  • 家族に刑務所に収監されていた人がいたか?

参考文献

ベッセル・ヴァン・デア・コーク,柴田裕之訳(2016)身体はトラウマを記録する:脳・心・体のつながりと回復のための手法 紀伊國屋書店

ドナ・ジャクソン・ナカザワ,清水由貴子(2018)小児期トラウマがもたらす病 ACEの実態と対策 パンローリング

花丘ちぐさ(2020)その生きづらさ、発達性トラウマ?:ポリヴェーガル理論で考える回復のヒント 春秋社

白川美也子監修(2019)トラウマのことがわかる本:生きづらさを軽くするためにできること 講談社


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