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エブリデイ大原美術館20日目〜一時停止と早送りのドニ〜

岡山の緊急事態宣言は明けましたが、ワクチンにオリンピックとモヤモヤする日々。硬くなった頭をほぐしに、ふらりと大原美術館へ行ってきました。

本館に入るとすぐに、児島虎次郎の「和服を着たベルギーの少女」が迎えてくれる。私のお勧めは、この絵の裏。大原美術館の「この1点」。

大きな展示替えはそんなにしないが、「この1点」は比較的、変更される。
ここにいたのが、モーリス・ドニの「波(wave)」

「波」

絵は、赤褐色の岩がごつごつした海岸に波が押し寄せている。
泳ぐ女性、手間の岩に泳ぎ疲れたのか座っている女性。全部で4人いる。

「波」を見たことはあるだろうか?
多くの人が「当たり前だろ!見たことあるよ!」と答えるだろう。
「波」は止まっていない。
あなたの見た波と私の見た波はイメージの中で一致するかどうかわからない。葛飾北斎が描いたように波は最も高い場所へ到達すると、水しぶきをあげ「はい!ストップ!」と停止している。これが「波」であるかのように思いがちだ。もちろん、これ以外の「波」も北斎は描いている。

波の持つ瞬間性。この一瞬しかない貴重ではかなくて、カンバスに閉じ込めることでの永遠性すら生まれる。
岩にぶつかる瞬間の波は、白く高く伸び上がり、エネルギーを爆発させる。
まだ大きな「海」というかたまりの「波」は、深く濃く、エネルギーをためているように見える。

波と光

波の性質として水という要素は、光とも反応する。
水の中の世界と外の世界。水面に映る世界と水中の世界が交錯する。

静寂

不可解な部分がある。手前左側に岩に水たまりができている。
海とはつながっていないその部分は、ベタっとした動きのない水なのかどうかすらわからない生命を感じない水がそこにある。

なぜ、裸の女性??

「波」を描いた作品。でもなぜ女性が泳いでるの?
1番手前の女性は、岩を背もたれにして座っている。
この人だけフォーカスが合ってる。
後の3人ははっきりと顔などがわからない。

この女性4人は同一人物だと分かった。
奥の方にいる彼女は、背泳ぎのような格好で波に身体をまかせいる様子。
右手にいる彼女は、両手を前に突き出し、闊達に泳ぎを楽しんでいる様子。
左手にいる彼女は、岩に捕まり、背後に振り向いた姿勢。これから海に出ていくのか、それとも海から戻ってきたのか。

誰1人もカメラ目線ではない。なのに、誰かと話をしているように見える。
私とではない。もう一人の誰か。誰もいない独り言のようなものかもしれないし、海(自然)と会話しているのかもしれない。

時間の流れがおかしい

「波」は一時停止を押されてストップしている。
その中にいる女性は、あっちへこっちへ、早送りのように姿を見せる。
大きな「波」の中で、自由に泳ぎ、流され、生命をみなぎらせる。

海の表情は、女性の感情?

渦巻く白い泡、弾け飛ぶ水しぶき、大きな深い色のうねり。
女性の感情の起伏(wave)を描いているようにも見えてきた。

ゴツゴツした男性社会

相対的に見れば、ゴツゴツした岩は、男性たちが作り出した動きのない男性社会なのかもしれない。奥に見える岩ほど細かくなくぬっぺりしている。水の入る余地はない。奥へ行くほど過去、手前ほど現代を象徴しているのだろうか。

水は形を持たない女性たちの自由な人間味あふれる感情。時にぶつかり、しぶきをあげる。そしていつでも女性は裸(素直な、実直な)な姿で世の中を変えてきた。

女性の美しさ

裸の女性の曲線美以上に、自然と戯れ、自然と同化し、一瞬を楽しむ。またそれを表現できることに美しさがあるのではないだろうか。

人の人生

人生はあっという間に終わってしまう。人は、波の中いる。その一瞬、一瞬の中にいる。全て連続的ではあるが、一瞬たりとも止まることはない。
その瞬間を彼女のように軽やかに生きることも。
波は一瞬なのだ。




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