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EVERYDAY大原美術館2023 vol.7「明日、死ぬかもしれない」

ある学芸員さんにこんな話を聞かせてもらったことがある。
絵画の並べる順番は、時代や絵画の大きさなどから考えることもあるが、順番に見ていく人の感情がどんな上がり下がりをしていくかを考えていると。
そうだとすれば、この絵はどん底に来る絵だと思う。

ジャン・フォートリエ作「人質」

ナカムラさんの「人質」

暗闇に浮かぶ、黄色い顔。目と口がかろうじて確認できるほど、簡素化された顔。だが、その表情はネガティブ。もう生きている心地すらしない無表情というネガティブを持った顔だ。

非日常の言語「人質」

身代金を要求される映画の中の言葉。もしくは、「戦争」が頭をよぎる。
地下に降りる階段。差し込む光は砂埃で白く、闇には細い細い息づかいだけがある。何人いるのか、男性なのか女性なのかもわからない。
一筋の光の先、ある人の顔が見える。痩せ細り、生気を感じない。

明日は必ずやってくるのか?

人質になったと仮定する。どんな気持ちなのか、何を考えるのか?
人質になったのは、自分のせいなのだろうか?
生まれたエリアのせい?人種のせい?運命?
不条理な人生のあり方を感じずにはいられない。

それ以上に、私のストーリーのゴールは、50/50。
死ぬか死なないか。
「明日、死ぬかもしれない」がリアルに突きつけられている。
よく「明日、死ぬかもしれない」と思って、一所懸命に生きましょうなんて言うが、リアルに感じながら生きることは難しい。

「明日、死ぬかもしれない」とリアルに突きつけられても、生きることへの覚悟を決められる人がどれだけいるだろうか。

ほとんど何も描かれていない作品だが、「目」だけはしっかり描かれている。横顔なはずなのに、目を見ていると、こちらを見ているように思えてくる。無表情な顔全体の雰囲気とは違い、何か訴えてくるような目線。それは「どうして私が」と責められるような強さはなく、「死にたくない」と嘆き悲しむような弱さもない。
ただただ、その「目」は私の心には刺さった。あなたは「生きる人」。私とは違う運命の人。先に死ぬ者の鋭い目線に耐えることができない。

本当は

そう考えると、本当は正面を向いていたのではないかと思えてきた。あなたと私という関係性が一瞬でもできたことによって、私は怖くなった。黄色く顔肌を塗ることで、横顔としてその恐怖を和らげたのではないだろうか。

死を思う

3つの「死」を分けて考えてみたい。
まずは、概念としての「死」。
生きるものの宿命として、必ず死は訪れる。
死んだ後があるのか、死んでも魂は残るのかなど、誰もわからないからこそ、不安で恐怖で死にたくないと思う人も多く、悟りのような超越した概念も生まれるのはどこまで行っても未知だからとも言える。

二つ目は、「他人の死」。
どんな人でも死ぬ。他人の死は終わりではない。死んだ後がある。
私は生きているから。あの人はいい人生だったとか、他人が決める。
辛く悲しい別れをするが、忘れるということも一つの美徳となる。

三つ目が、「自分の死」だ。
並列的に話してきたが、急に解像度が変わる。
自分が死ぬとなると、そう簡単には受け入れられない。
結局、私の人生ってなんだったのか?そんな問いを突きつけられる。
何かを成し遂げるために生まれてきたのか?
成し遂げたとて、それが何になるのか?みんなのため?社会のため?
死んでしまっては、そんなものに意味があるのか?自己満足?
楽しければそれでいい?いや、待て待て、そもそもまだ満足なんてしてないし、楽しい時間なんてほんの一握りな感じもする。

3つの顔の輪郭

よく見ると、一人の顔だけではなく、他にも顔の輪郭が見えてくる。
左前に後で書かれた黒で描かれた輪郭。
もう一つは、赤で描かれた輪郭。

自分の「死」を重ね合わしたか。また明日の彼を描こうとすれば、そこに彼はいない残像としての彼をすでに見てしまったのか。どちらにしても、ここにいる彼は死を迎える人として描こうとしたことを感じさせる。

人は皆、人質

失うものなんて、何もない。だから何だってできる。
そうやって生きる勇気をもらってきた。
だが、生まれた瞬間から、命を人質に人はみんな生きている。
明日死ぬかもしれない、そんな恐怖と戦うために、何かに没頭し、
誰かを愛し、誰かを憎み、誰かを許す。






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