言い分けのスケッチ

ぺちん、と音がしたので振り返った。
明るい黄土色のレンガが敷かれた地下鉄駅の通路には私しかおらず、静かだ。鞄から取り出そうとしていたパスケースを落としたのかと思ったけれど右斜め後方には何もない。鞄を探るとパスケースはちゃんとある。自分の注意力には自信がない。階段をもう少し戻って探すべきだったろうか。何か、どこかが軽くなっている気がするのだけれど。鞄には携帯電話と財布も入っているから、取り急ぎ困るようなことはなさそうだ。落としたとしてもポケットティッシュかのど飴とか目薬とかそんな程度だろう、と思うことにし、すっきりしないまま改札口を出た。
どこまで行っても人のいない地下通路には録音された小鳥の声が流れている。センサーに人が近づくと動き出すタイプのエスカレーターに一人で乗った。ごとん、と存外に大きな音をたて重そうにステップが流れはじめる。ゴンゴンゴンゴンゴン。エスカレーターはいつもよりスピードが遅いようだった。

地上に出ると晴れていた。まさに秋、という程の温度も気持ちがいい。いや、違った。今は、天候や快適さのことではなくて、迅速な移動を優先しなくてはならない。約束の時間は三分後。走るべきだ。そう気がついたのはもう五百メートルは歩いてしまったあとだった。それでも三十メートルは走った。運動不足なので息が切れる。
言い訳は走りながら考えた。ブラジャーをつけるのを忘れて出かけたのでつけに戻った、とか、出がけに宅配便で巨大な蟹が届いて解体して冷蔵庫に入れていた、とか。わかりやすい遅刻の理由は待たせた相手への気遣いとして必要だ。実際のところは、何かを落とした気がして周りをうかがう数十秒や、天気に気を取られた一瞬や、エスカレーターを動かしてみたいという好奇心のほうを選んでしまった判断力が山積した結果、つまり習慣か癖とでも言えるもので、だからといってそれをそのまま言ったら不興を買うのは小学生のあたりで学んだ。「こうじゃない人」には、否応なしに積み上がってしまう無駄な余白の時間がないのだ。それは私にとってだいぶ不思議なことに思えた(時間は伸び縮みするってそういうことだろうか)が、遅刻の理由を思い出して丁寧に、正直に言えば言うほど、素直になりなさい、と詰め寄られ、お互いが消耗するだけだった。それならば明確な嘘をついて一度怒られる方が手っ取り早い。うまくすれば笑って許してくれるだろう。今回は、よく知らない相手にブラジャーの話もなんだから「蟹を冷蔵庫に説」で行こうかな、と決めて目的の建物に入る。


 失業保険を受け取りに行ったハローワークに、そのチラシはあった。薄緑色の上質紙に黒一色で刷られた簡素なもので、少しおどけたような書体で「待ち合わせ」とある。脇には梅と鶯のイラストが添えらており、どうにもちぐはぐな印象。その下には少し小さな文字で「待ち合わせから始めてみませんか。社会復帰の足がかり・ひとときの安らぎ・各種偽装・他」、あとは携帯電話の番号だけだった。あからさまに怪しいその番号に電話したのはやはり、暇すぎたからだろう。
仕事を辞めてから、なるべく無為に過ごそうと決めた。一人暮らしの部屋で目覚ましをかけず、着替えず、人との連絡も取らず、食べたいものを食べ、面倒な時は食べず、間違っても役に立つ知識を「得られなさそう」なテレビ番組にチャンネルを合わせ、眠くなったら眠った。それは実際とても楽しかったのだ。しかし、無為は思ったよりずっと飽きがくるのが早かった。なにしろ刺激が少なくて、たったひと月で私は「予定」を恋しがってしまった。予定は欲しかったが、意味のあることをするのは、どうにもまだ気が重かった。ただの「待ち合わせ」だけならば、ギリギリ大丈夫、、という気がしたのだ。

『あのう、本当に待ち合わせだけですか。』
電話が本当に繋がってしまったことに驚きながら聞いた。
『待ち合わせ自体とその場での会話五分までが基本料金となっておりまして、お望みでしたら、追加料金を戴いてオプションで立ち話、喫茶での雑談が可能です。』
『料金はその場で』
『申し訳ございませんが、先払いでお願いしております。郵便振替か銀行振込、コンビニ払いもお選びいただけます。』
コンビニ払い。思いのほかちゃんとしている。2500円という値段が適正なのかどうかはよくわからなかった。一週間後に待ち合わせの予約をした。
 しばらく開いていなかった手帳に「待ち合わせ 11:30」と書き込む。日に何度か、開いて見た。

 団子町区民センターはコンクリートとガラスでできている。等間隔に並んだ柱と、一辺だけ斜めに切り取ったような形の建物。視覚障害者誘導用のチャイムが、ぴーんぽーん、と間延びして鳴る、公共の施設特有の風情。アールのついた大きなガラス窓の脇にあるラウンジスペースが、私の指定した待ち合わせ場所だ。梅のバッヂをつけています。と電話の相手は言っていた。見ると、そのスペースの常連らしき老人たちとは明らかに違うタイプの人が座っている。
男性はスーツ姿で、胸板が厚く、顔の筋肉が発達しているからこそできるような笑顔をこちらに向け、頷いた。もう少し町に溶け込む、スパイや間者のような相手を想像していたので、存在感に少し気圧される。この人に、蟹が、とか言って通じるだろうか。笑って…は、もともといるが。こちらは、しばらく対人用に使っていなかった顔の筋肉をほんの少し緩めたくらいの笑顔をつくる。まず、遅れた詫びからかな、と息を吸ったところで、ようやく私は、さっき何を落としたのか、に気がついた。
あー…ぺちん。ぺちん、かー。そうか。思い返せばあれは、少し水分を含んだものが立てた音だった。大きさもパスケースと似ているし。
落としたのは、舌だ。私と男性は、お互い笑顔のままだった。

 世界の隙間みたいな数秒のあと、私は急いで、もうわかった、という顔をして、小刻みに頷いてみせた。舌がなくても、少し笑うくらいはできた。はは、といつもより多めに息が漏れる。
『よろしいですか』
男の声はよく響いた。
口を横に引き、目を開いて、うん、うん、とさらに大きく頷く。
『では、失礼します。』
笑顔をピクリとも崩さず、のっしのっしと男は自動ドアに向かった。

男が立った後のベンチに座って息をつく。
ああ、2500円損した。いやでも目的は「待ち合わせ」だから、それ自体は遂行された。しかし私の全身は、悔しさに満ちていた。がくーと前方に崩れ、膝に顔をつける。ベンチの老人たちは訝しげに見ているだろうか。
ちょっと聞いてくださいよ。さっき地下鉄で、何を落としたと思います?最初気づかなくて!だってここへ来るまでの十五分ほどの間も特に、使う必要なかったもんですから。意外とね、わかんないもんですよ。びっくり。
 こんなにも、待ち合わせ相手に話したいことがあるだろうか。この話をすれば少しの遅刻なんて帳消しにしてもらえるに違いない。さっきの男の完全な笑顔が驚いて崩れる様子を想像し、私は舌を探しに駅まで戻ることにした。空は相変わらず高く、住宅街のどこかからほのかにカレーの匂いがする。

そんな奇特な