ちょうどいい鞄

 (メモ帳に残っていた、特になんの用途もないエッセイ。たぶん六月に書いたんだろう)

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 七月の頭に大阪に行くことになった。そろそろ考えなければならないことがある。鞄を検討することだ。
 旅を多くする方ではないが年に一、二度は遠方に行くことがある。大抵一泊か二泊で、行き先は都会なので荷物は多くない。
 押入れをごそごそやると、今までに旅行に使った鞄は複数ある。全部、ちょうどよくない。

 買うときは勿論ちょうどいいはずだと思っている。しかし旅行用の荷物を詰めて、家から朝のラッシュアワーに電車に乗り東京駅の複雑な通路を進んでグランスタの地下で駅弁とビールを物色するあたりでようやく鞄の不具合はくっきりする。重くて肩が凝るし網棚に上げられない。ポケットが開けづらくて財布が出せない。容量が少なくて弁当を鞄にしまえないから腕に下げたビニール袋が二の腕に食い込む。落ち着かないビールがぶらんぶらん揺れて当たった腿が冷たい。次はもっと快適な鞄を持ってここに来たいと、満席のベンチの隙間を探しながら思う。

 押入れの鞄は捨てるのには気がひけるが、使いづらいので使わない、ちょうどよくない鞄が半年ごとに一つ、死蔵されてゆく。
 身も蓋もないことを言えば、そもそも私は荷物を持って歩くのが嫌いだ。
 旅行は移動が長いから、乗り物に乗っている間は、眠っていても、ぼんやりしていても、無言でいてもいい。なぜなら、私はもうすでに「移動をしている」からだ。そして目的地に到着しても、旅行中はすべて「移動」とみなしていい、ということにする。家でも眠れるし、ぼんやりできるが、家事だの仕事だの事務作業だのと同様、それらはしなくてはならないことでもある。旅行中は、私は立派に移動しているのだから何をしていても(していなくても)自由だ、という清々しさと寂しさがある。そいういう、旅行の足場が不安で自由なところが好きだ。だから、重い鞄は持ちたくない。鞄には着替えと化粧品や薬、仕事用の筆記用具とiPad。つまり生活だ。生活が肩に食い込んでつらい。おそらく、どんな鞄もすべて、ちょうどよくない。

そんな奇特な