不確定日記(身体としてのキッチン)

以前、ミステリーのドラマ(たぶんこれ)で殺人の容疑者である一人暮らしの女性が分不相応な家賃の部屋に住んでいる、と刑事に詰問されて「コンロが二口あったから」と答える場面があり、私が部屋を探すときに真っ先につける条件がそれなので、主人公に過剰に肩入れした覚えがある。(いきなりのネタバレをお詫びするべきだろうか)

台所のことは、身体の延長のように思っている。
一人暮らしの部屋は、すべての物の配置が自分の生理に最適化されていくものだけれど、特に台所に関しては、温度の調整や水分、道具の導線、気をつけるべき火や刃物、衛生管理への緊張感との折り合いの付け方を、毎日の自炊から得て感覚的に体に馴染ませてゆく。
コンロはこのくらいひねるとちょどいい弱火にでき、それなら5分放置できるからその間にまな板を洗える。コンロから下ろした鍋の中身を2番目に小さいザルにあげたら、引き出しにある塩を振って、あ、冷蔵庫の消費期限が近づいたあれをついでに食べよう。皿は上の棚の茄子柄のあれにしよう。
そういうのは自発的に学んだ物ではなく、必要に応じて体得した。辛かった覚えは一切ないが、武道や音楽や宗教の修行にも近いのかもしれない。
食べたいから料理するのだけれど、拡張した何㎡かの身体を使ってする調理そのもの快感もけっこう大きい。

だから時折、人の家で料理をすると緊張する。自分の台所になじみ切っているからこその応用もできるのだけれど、他人の体内を垣間見てしまういたたまれなさがある。同時にワクワクもする。他人の体は私のそれと意外なほど違う。あなたの足の小指はここについてるんですね。おやこんなところに睫毛が生えている。ちょっと唇を使いますね。
ただしちょっと平衡感覚が狂うので偶になら。日常的に他人と肉体を共有するのはそれなりの覚悟と訓練の積み重ねが必要だろう。

そんな奇特な