見られています、「人」として。
”生意気“な話に聞こえるかもしれないけれど、
これ、実話。
小1の坊や「Nくん」のお話。
ある日、
Nくんが学校から帰ってくると、元気ない。
「どうした?」母が尋ねる。
「なんでもないよ」と、Nくん。
しばらくしてNくんは言った。
「ぼく、学校好きじゃない」
「どうして?」母が瞬時に質問に変える。
「わからない」Nくんは答える。
・・・自分は、どうしてこんなに落ち込むのか
おそらく、Nくんは本当に分からなかった。
ーそう、その時は。
次の日、
Nくんはとても嬉しそうに、弾んだ調子で帰ってきた。
「たっだいまー♪」
「おかえり〜!なんか良いことあったの?」母は興味津々に尋ねる。
「今日は担任の先生がお休みで、教育主任の先生が代わりだったんだー!」
「もう、とっても楽しくって!」
「授業中、ずっと楽しかった!!」
Nくんは興奮しながら話し続ける。
「Tくんを褒めてくれるんだよね〜」
「Tくん」とは、Nくんのクラスメートで、仲良しの友達。
Tくんは、(真面目な大人にとっては)ちょっと風変わりな性格のため、不真面目、乱暴、横柄な態度を見せる、として嫌厭されてしまいがちな子。
でも、教育主任の先生は、
そんなTくんの良いところを見出して、
みんなの前で褒めてくれて、
みんなのお手本として活躍の機会を与えてくれた、
と、Nくんは感激していたのだ。
そうか、
Nくんにとって、差別という見方は全くない。
良い子で振る舞おうと心掛けているわけでもない。
と気づく。
とても自然に、いや当然のこととして、友達との交流を楽しんでいる。
だから、それができない大人を見る時、
それが担任の先生だろうが、人として、Nくんは哀しみを覚えたのだろう。
そう、子どもたちは見ています。
そう、見られています、「人」として。
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