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理念と実践(8)七百万世帯の女性「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第25回

団結する婦人
 七百万世帯といわれる創価学会員の半数は女性である。家庭婦人もいれば、働く女性もいる。既婚者に未婚者、年令も違えば、境遇もさまざまだ。
一般的に女性の場合、政治に関心はあっても行動的ではないし、感情に走りがちなせいもあってか、女性の組織化はむずかしい、とされている。ところが、池田を師とするこれら女性会員たちが連帯感を固めて一つの社会運動に直接参加しているケースはおそらく例があるまい。
 四十一年、土砂降りの甲子園球場で行なわれた関西文化祭では、バレーに参加した女子部員たちが、ぬかるみで真剣な演技をくりひろげた。純白の衣裳をつけた、数百人かの若い女性たちがなんのためらいもなく、泥にまみれて舞う姿は、みる人に壮絶な感じすら与えたが、彼女たち一人一人の心に,池田に見てもらいたいというひたむきな気持がなければ、到底できることではない。それも、女性会員一人一人が、池田との間に 心のきずなが固く結ばれてこそ、これだけの膨大な女性の団結が保たれたのだろう。
 これら女性会員に池田が求めるのは、はかない虚栄を求めることのない女性。母親といえども一個の社会人として、主体性を確立し、共通の目的に向かって団結する女性像である。

新しい女性像
 そうした立場から、池田は女性会員に対して、「怨嫉は絶対禁物である。怨嫉が起るのは目的観がなく、自分の成長がないからだ」(講演)
 「ほたる火のような、はかない虚栄を求める女性になってもらいたくない。主体性をもち、信心強く、そして、愛情深い、近代女性に育っていただきたい」(同)
 「たとえ、どんなに近代的で立派な女性になっても、今日、家計簿も満足につけられないようでは、はなはだ原始的な女性といわれても仕方はない」(家庭革命)
 「封建的な、姑息な女性であっては断じてならない。あくまでも新時代、新世代を築くべく、その先駆をきる知性と教養と情熱をもった 、最高の近代女性であるとの誇りをもつべきである(大白蓮華巻頭言)
と指導する。
 女性会員といえば、四十年ごろ私が企画取材のため、大石寺を訪れたときのことだ。大石寺には、毎日のように全国から一万数千人の人たちが登山する。私は幹部に依頼して、できるだけ遠隔地からきている一般会員三人を選んでもらってインタピューを試みた。

多数のための幸福
 当時、公明党の衆院進出が予定された時期であったことから、私はつぎのような質問をした。
「公明党が衆院に進出すれば、政党としてもよほど責任が重くなる。政府の政策に対する賛否もはっきりせざるを得ない。しかし政策が学会員の一部にとっては利益になるが、一部の学会員にとって、不利だということも当然でてくるだろう。その場合もすべての学会員が公明党の態度を支持できるかどうか、この点が公明党の限界を占うカギになると思うが」
 これに対して北海道からきたという二十歳前後の女子部員が、当時世間を騒がせていた吹原事件を引用してキッパリ答えた 。
「かつて街の金融王といわれ、栄華を極めた男がいまでは脱税の摘発で蓄財を失い、牢屋につながれている。人間の幸、不幸は長い目でみなければわからない。たとえ、公明党の 一つの政策がいまの自分にとって、経済的な面で不利を招く場合があっても総体的には将来、みんなの幸せのためになることだから支持できます」と。
その確信に満ちた口調から、私は北海道に住む一人の若い女性をここまで育てた池田の指導性に強い印象をうけたことを記憶している。
 それはともかく、池田は「男には女性を抑圧しようとする本性がある。私は弱い人を守らずにいられない。だからどうしても女性の味方になってしまう」という。これに応える女性学会員たちの熱心さは、男性学会員に勝るとも劣らない。彼女たちは世の一般の女性が、ウワサ話にふけり、テレピのドラマに見入っているとき、広宣流布を合い言葉に教学を学び、折伏に、会合に、選挙に走り回る。学会員以外の人たちからみれば理解できないことかも知れないが、これほど大勢の女性を組織化し、指導しきっている点でも、池田はまれな存在といえよう 。