人間・池田大作(1)鋼の男「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第9回

鋭い洞察力
「池田は鋼のような男だ。それに人間をよく知っている」
池田とはじめて会ったある著名人がもらした初対而の感想である。「鋼のような」とは強靱な精神力,「人間をよくしっている」とは相手に対する鋭い洞察力を意味したものだ。
この人物に限らず、池田に会った多くの人たちが同じような印象をうけるようだが、そうした池田のもつ強靭さは、戸田から得た日蓮正宗への絶対的確信と、これを支えてきた生来の強い意志であることは間違いない。
今七百万世帯といわれる創価学会も、昭和二十年代中頃まで、わずか三千世帯のとるにたらない組織であった。しかも果敢な折伏に対する世間の風は冷たかった時代である。今では創価学会に対する理解も徐々に深まりつつあるようだが、それでもまだまだ偏見が強い一事をみても、当時の創価学会をとりまく排斥的、軽蔑的雰囲気は容易に想像されよう。戸田とともに開拓と組織作りの先頭に立って戦った池田にとって、あらゆる意味で苦難の時代である。その苦難を池田は受け身の形で耐えたのでなく、むしろ積極的にうけとめ、挑んでいった。あえて“苦労”といわず苦闘というのも、この姿勢のためだろう。

苦闘よ。苦闘よ。
汝は、その中より、真の人間が出来るのだ 。
汝は、その中より、鉄の意志が育つのだ。
汝は、その中より、真実の涙を知ることができるのだ。
汝よ、その中より、人間革命があることを知れ。(若き日の日記 池田二十二歳)
革命児に苦難はつきものだ。青年には苦悩がつきものだ。(同)

池田は十年、二十年後を信じて、世間の白眼視にも批判にもひるまなかった。
笑う者よ、笑うがよし。謗る者よ、勝手に謗るがよい。嘲る人よ、また自由に嘲けるもよかろう。
十年後の学会を見よ。
二十年後の学会を見よ。(同)
今は罵詈罵倒されている師、学会
しかし、われらの成長せる十年後二十年後を見るべしと、心奥に 岩の如く感情が湧く。(同二十三歳)

若き日の苦悩
世間の非難に対して闘志を燃やす一方で、自身に対してはいつもきびしかった。何かにつけて自己の未熟さ、浅薄さを反省しながら、「所詮、人生は自己との戦いであり、そして対外的なものとの戦いである」と決意、また「 生涯-精進、生涯-勉強、生涯-努力、生涯-建設」を誓うのである。
しかし、ここに強調されているほど、はたして池田は強い男だったのだろうか。たとえ、仏法への絶対的確信があるとしてもである。なぜなら、戸田が事業に挫折した時、一人、二人と去り池田一人が戸田を助けたこと、また戦時中、牧口初代会長が軍部の弾圧で十数名の幹部とともに投獄された際、ほとんどの幹部たちが、その苦痛から逃れて退転していった事実もある 。
もともと、人間の心の中には、勇気と臆病、勤勉と怠慢、傲慢と謙虚、憎しみと慈愛、残酷な心と優しさ、親切と意地悪さ…そういった相矛盾する二つの心が併存しているものだろう。
池田とて人の子である。苦しい時は、それから逃れ、楽をしたいという気持が起こらなかったはずがない。時として怠けたい誘惑にかられることもあったに違いない。物事がうまく運ばない場合は、自身を反省するより他人のせいにしたい気持にもなるだろう。事実、「若き日の日記」にこんな箇所がある。
「人を責めたくなる時がある。自己の非を棚に上げて」弱き自己。意気地なき自己。悩み続ける自己」「自分が思うように前進出来ないことが悔しい。泣きたくなる思いの日がある 。青年の心のどうして転々と動くものか。感激、失望、歓喜、苦悩、向上、停滞、元気、心配、楽天、細心と」
本来は、彼とて決して強靱な人間ではなかったわけだ。そうしてみると、池田が自分にいいきかせ、闘争へかり立てたものは弱さの裏返しとみられないこともない。そこに激しい自己との戦い、そして心の葛藤の道程があったのである。

ついに自己に勝つ
ただ普通の人なら、その自分との戦いになかなか勝てないものだ。池田はそこを勝ち抜いてきた。そして今日でも勝ち続けているところに違いがある。彼の強靱さはその道程に築かれたものであり、それを支えたものはひたむきな求道心であったと思われる。
池田は二十三歳の頃すでに、宗教を根底とした政治観、科学観、学会の歴史を書き上げる抱負を日記で述べているが、それらはその後小説「人間革命」をはじめ「政治と宗教」「科学と宗教」など、多くの著作に具体化されてきた。青春時代の抱負を実現させたほんの一例にすぎない。
「言行一致、誰人も欲して出来得ぬこと。吾人はこれを達成していかねば」との決意を単なる言葉に終わらせなかったのも、自己を克服した池田の自信を示したものといえるだろう。