忘れまじ嵐の4.24:2008.12.2 各部代表協議会から引用

先日、昭和54年(1979年)に私が第三代会長を辞任した際、全国の同志から、数多くの怒りと悲しみの声が寄せられたことを紹介した。
 “大功労者の池田先生が、なぜ辞めなければならないのか。学会の首脳は何をやっていたのか”──こうした悲憤の声が、手紙や電話で寄せられた。その数は、直後だけでも、およそ8,200から8,300になる。
 この時に、同志の皆様が寄せてくださったお手紙は、すべて大切に保管してある。
 今、読み返してみても、涙なしでは読めないほどの憤激の手紙である。ありがたい、誠実と真心の光る手紙である。
 〈ある婦人部の友は、名誉会長への手紙に次のように綴っていた。
 ──池田先生、なぜお辞めにならなければいけないのですか。そんなことがあっていいのでしょうか。私は嫌です。私の師匠は、池田先生しかおりません。
 私の家は、元は悲惨を絵に描いたような生活でした。それが今では、願いのすべてが叶い、生まれてきた喜びを味わえる境涯になりました。
 これは、全部、全部、先生がいらっしゃればこそです。
 私たちのような庶民の幸せを、だれが祈ってくれたでしょう。先生以外には、いらっしゃいませんでした。
 先生、どうか再び指揮を執ってください。その日が来ることを、私は祈り続けてまいります──。
 また、ある男子部の友は、手紙に次のように記した。
 ──先生の会長辞任の報に接し、万感胸に迫るものがあります。僕は負けません。しかし、自分の胸中の寂しさは、どうしようもありません。
 もう先生に、お会いできないんでしょうか。これからは、先生の御書講義や、ご指導は受けられないんでしょうか。
 会長である池田先生も、会長でない池田先生も、私たちにとっては池田先生です。
 先生、僕は、先生の弟子です。師子の子です。成長します。力をつけます。この苦衷は、僕の未来へたたきつけます──。
 また、関西の同志からは次のような様子が伝えられた。
 ──池田先生の会長ご勇退を聞いた時、関西は皆、悲しみと悔しさ、落胆と怒りで、目の前が真っ暗になりました。
 ご勇退の直後の大ブロック(現在の地区)の会合では、いつもは明るい大ブロック担当員(現・地区婦人部長)が、「なんで先生が、辞めなあかんのや! 皆のために戦ってこられた先生が、なんで会長を辞めなあかんのや」と号泣しました。
 皆、堰を切ったように泣き始めました。
 普段は和気あいあいだった会合が、一変してしまいました。この悔しさは、絶対に忘れません──〉
 また、識者の方からも、多くの丁重なお手紙を頂戴した。私の世界を舞台にした平和行動、人類を結ぶ対話に対する期待が、社会に大きく高まっている時だった。
 多くの方が、私の辞任を惜しんでくださった。
 あの時、私の会長辞任の報を聞き、すぐに東京に駆けつけてくれた関西の同志もいた。
 また、ある九州の友は、「終生かけて師匠の仇を討ちます」と憤激の決意を手紙に認めて送ってくれた。
 “先生、私たちのために、どうか辞めないでください!”“私が先生をお護りします!”
 ──そう叫んでくださった尊き庶民が大勢いた。
 私は、こうした真実の同志の姿を決して忘れない。皆様の幸福と勝利を祈り、ずっとお題目を送ってきた。
 これからも、永遠に祈り続けていくつもりである。
 反対に、大幹部の中には、大恩ある学会を裏切り、かえって仇をなす人間が出た。私が苦しむのを見て、陰で喜ぶ人間もいた。
 あまりにも卑劣な、恩知らずの姿であった。
 御書には、「畜生すら、このように恩を知り、恩に報いる。まして人間が恩を知り、恩に報いないでよいはずがあろうか」(293㌻、通解)と仰せである。
 仏法は、恩の大切さを教えている。報恩に生き抜いてこそ、真の仏法者である。
 不知恩の輩を戒めなければ、信心の世界は破壊されてしまうだろう。
 いざという時に、人間の本質は明らかになる。
 戸田先生は語っておられた。
 「難が起これば、人間の真価がわかる。一人一人の信心の真偽が明らかになる。そして、学会を利用しょうとしていた者や、臆病者は去っていく」
 戦時中、学会が権力の弾圧を受けた時、最高幹部たちは次々と退転してしまった。
 戸田先生は、獄中から同志に宛てた手紙の中で、草創からの大幹部でありながら退転した人間を指し、次のように戒められた。
 “幹部諸氏に、あの男の二の舞になるなと注意せよ”
 戦後、戸田先生の事業が破綻した時もそうだった。
 それまで「戸田先生、戸田先生」と言っていた人間たちが、手のひらを返したように先生を罵倒し、去っていった。その中で私は、ただ一人の真実の弟子として、師匠のために、すべてに勝ち抜いてきた。
 先生の多額の負債。その一切を返済していったのは私である。
 先生が第二代会長になられた後も、遅々として進まない折伏。
 「大作、なんとかせよ!」。その先生の一言を受けて、私は、大折伏戦の突破口を開いた。「不可能」と言われた選挙の戦いも勝った。師のために、卑劣な迫害にも耐えた。
 第三代に就任してからも、襲いかかる弾圧を乗り越えてきた。
 先生は、こうも述べておられた。
 「この悪辣な時代に、本格的に広宣流布をやろうというのだ。それは、容易なことではない。広宣流布は、よほどの信心と勇気と智慧がなければ、とうてい遂行できない大偉業なのだ」
 その通りだ。
 「それをできるのは、大作しかいない」。先生は、そう言ってくださった。
 私は第三代会長を辞任した。辞任せざるをえなかった。
 しかし、このままでは学会は滅茶苦茶にされてしまう。苦しむ同志の姿は、あまりにも、かわいそうだった。
 私は陰の立場で学会を護った。そして、同志のため、戸田先生のため、師匠への誓いを果たすために、もう一度、学会の指揮を執って、ここまで戦ってきたのだ。
 その間、どれほどの陰湿な嫉妬や攻撃があったか。どれほどの苦闘だったか。苦悩があったか。
 私はあらゆる犠牲を払って、広宣流布のため、学会の同志のために力を尽くしてきた。
 皆が勝って、愉快にこの人生を飾れるように──そう祈りに祈って、戦い抜いてきた。
 先生の偉大さを声に出して語り、叫びに叫び、世界に宣揚してきた。
 これが創価の歴史である。美しい戦いだった。壮絶な闘争だった。
 「先生!」「先生!」と叫んで、不二の魂で広布に戦った分だけ、諸天善神が一切を護ってくれたと、強く確信している。
 これは私自身のことでもあるが、本当のことを言わなければ、何が真実か、わからなくなってしまう。
 未来のために、ありのままの事実を語っておきたいのだ。
 今、一騎当千の弟子がいるかどうか。本物の新たな「池田大作」が出ることを、私は祈り、待っている。