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愛読『生物と無生物のあいだ』

人間は現実と非現実を案外かんたんに取り違えてしまうのではないか。

「事実は小説よりも奇なり」を地で行く事件のニュースを見るたび思う。人生いろいろあるけれど、一線を越えてしまう人と超えずにとどまる人がいる。何が違うのか。

一線を超えてしまうのは、もしかしたら現実と非現実の区別が「ごちゃっ」とする瞬間ではないか。

わたしたちは現実と非現実のあいだを生きているのだ。

『生物と無生物のあいだ』を真似してみた。

最近読み直していたら、〇と〇の「あいだ」が気になりだしてきた。「あいだ」というと、どっちつかずの中途半端で不安定、どちらかといえばよくないイメージ。でもあらためて考えてみると、幅というか、なんかゆとりみたいなのを感じないでもない。

二十年くらい前、人間が勘を頼りに適当に加減していたことが自動でできるというファジー機能搭載ファジー家電というのがもてはやされた。当時ファジーということばには「あいまい」とか「いい加減」といった雑だけど人間味あるイメージが好意的に受け取られていたのを思い出した。今ではファジー機能なんて、あたりまえ過ぎて言うまでもないのだそう。
ヒトと機械のあいだが窮屈になってきているのかもしれない。

『生物と無生物のあいだ』を愛読しているというと、さぞ内容を理解しているんだろう、などと思われては困る。毎回少しでもわかりたいと期待しながら読んでいる。読むたびに新しい気づきがある。わからないから読みたくなる。
いつもだいたい同じところでつまずく。DNAのパズルのところ。DNAの基本知識が乏しいうえに、らせん構造がうまくイメージできない。前提知識を得るために、もっと教科書的なものを読むといいのだろうが、正直そこまでする気にならない。DNAの構造がよくわからなくても『生物と無生物のあいだ』はじゅうぶんすばらしくおもしろい。

帯にあるように、本書は極上のミステリーなのだ。みんな大好きミステリーなんだからおもしろいに決まってる。実際「なぜ?、どうして?、どういうこと?」という壮大なミステリーに引き込まれずにはいられなくなる。
またこれ福岡伸一の文章が小説のように美しい。

中でも一番好きなのは、この本のキモである動的平衡論のくだりである。
生きているというのは動的平衡な状態という。それはいったいどういうことか? 生物というのは実体として存在しているのではなく、波打ち際の砂城のように、流れが作り出している効果としてそこにあるというのだ。
突き付けられたときの衝撃は今なお続いている。

身体もまた『方丈記』の河の流れと同様、絶えずして、しかももとの水にあらず、ということ。福岡伸一のことばを借りれば<生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。>この流れ自体を生きているというのである。

DNAの二重らせん構造がまだ知られていないころ、シェーンハイマーという人がこのような生命の流れを初めて実験観察することに成功した。つまりこのことは疑いようのない事実なのである。その後1941年、彼が自死したというのも衝撃的なできごとだ。

見るものすべてが一変してしまう新しい生命観の誕生である。にもかかわらず、一般的に知られていないというか、ほとんど語られることがない。
どうしてか?

わたし自身、流れとか淀みといった生命のこと、知ったあとも知らなかったように暮らしている。そうでないと正気でいられなくなる。

何よりも大事で尊厳あるものとされている生命が流れに過ぎないと言ってしまったら、身も蓋もない。この身体は淀みでしかない? どう受け入れたらよいのか。

不都合なことは忘れてしまうようにできているのかもしれない。
と、ホラーじみてきたところで『生物と無生物のあいだ』の話はここまで。
何となく生きてるのがむなしくなったときなどに、ページをめくってみてはいかがだろう。世界が変わるかも。
すでに読んだことがある方も、またぞくっとするはず。


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