『正欲』の社会
朝井リョウさんの『正欲』を読んだ。人気作家の映画になるくらい人気の作品。おもしろそうと思っても、実際には読めない本の方が多いと思うと、こうして今読む本には、人との出あいと同じくらいの縁を感じて読んでいる。ふだん昭和の作品を読むことが多いせいか、『正欲』はあたりまえだが現代的で映像的だと思った。
なかでも佐々木佳道の社会観が興味深かった。知らないうちに、いつの間にか人々がひとつの価値観に集約されていくようすを川の流れにたとえていたのが印象的だった。といっても、本はもう手元になく、何となくの記憶なので間違ってたらごめんなさい。個人的な理解ということで。
流れに乗ることが正しいことで、そこから外れてしまうと、たちまちいたたまれないことになる。主人公の哀しく冷めた視線と、悩みなく王道を行く同級生たちの対比がなんとも気味が悪い。自分はいったい誰目線で読んでいるのか、わからなくなる。
佐々木佳道と桐生夏生は、社会の一員として生きられない絶望から死ぬことを考える。社会のふつうからはみ出した異常者と自覚する自分たちに生きる希望は見いだせないという。
ふたりの話を読んでいて、子どもが不登校になったときのことを思い出した。そのとき社会から取り残されたような感じがして途方に暮れたからだ。
恐怖に近かったかもしれない。一時学校関係者の訪問を拒否して親子でひきこもっていた時期もあった。誰とも話したくなかったし、理解してもらえないと思った。
誰も助けてくれない、わかってもらえない絶望感、多かれ少なかれ経験するのではないか。人は所詮他者のことはわからない。他人事でしかないからだ。
ついでにいうと、自分のことも案外わからない。ふつうかどうか、多数派か少数派か、異常かどうか、わりとわかってないように思う。自分のことはいいように思いがちな反面、まったく自信が持てなかったりもする。
一般的とか常識についても、じつははっきりしない。そんなのは時代や環境、地域によっても違いそうだし、たえず変わり続けている。だからいつもどこか不安な自分がいる。社会から仲間外れになっていないかどうか、確かめたくなる気持ちがわかる。
「ひとりじゃない」ことを確かめ合うために、同調圧力をかけ合うのかもしれない。
佐々木佳道と桐生夏生の二人が手を組んでいくうちに、誰もが同じような不安を抱えながら、確かめ合うための努力をしていたことに気づいていくシーンは感動的。
社会的動物は、自分が除け者にされているかどうかを察知する能力に敏感らしい。集団でなければ生きていけないからだ。仲間外れにされたときに活動する脳の部位は、身体が痛む嫌悪感に関係する部位と同じで、もっとも敏感な痛覚系というのは示唆的だ。(参考:池谷裕二「脳には妙なクセがある」)
佐々木佳道や桐生夏生の孤独と絶望があらわになっていくさまは、誰もが思い当たる現実と重なっていく。少数派とか異常とか、安易にくくってしまっていいのか。
その一方、疑いなく王道を行く田吉幸嗣(ゆきつぐ)の言動がひどく差別的で異様に映るのが皮肉である。
よろしければサポートお願いします。いただいたサポートは作文愛好家としての活動に使わせていただきます。