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なぜか北村薫氏の文芸趣味にハマる

ミステリーのガイドブックをもとに読み進めていくつもりだったのだけど、ランキング上位10作品を読んだあたりで次は外国作品にしようか、それとも新しい作品を読んでみようか悩んでいた。

ふと日常のミステリーで有名な北村薫氏の『空飛ぶ馬』を読んでみる気になった。いろんなところで話題にのぼる作品だったので、いつかは読んでみたいと思っていたものだ。

最初の印象は正直退屈な感じがして、シリーズを全部読み進めることになろうとは思いもしなかった。教科書にあるような小説らしい文体がどこか懐かしい印象で、とくに旅先での風景描写などは、想像力に欠けるわたしには少々うんざりしてしまうくらい長々しく思ったものの、それでも何とも言えずしみじみとしたおもしろさに魅了された。

どこかで思いがけないびっくりした仕掛けがなければいけない。それを期待するのがあたりまえになっていたけれど、そういうのがなくても読み進めたくなる謎が出てくる。これがいわゆる日常のミステリーというもののようだ。

「円紫師匠と私」シリーズは、やがて文芸史の謎ときのようなマニアックな内容になっていく。日常ミステリーとはいいがたくなる点、好みが分かれる。確かに前半の日常の謎は味わい深くおもしろい。それに比べて『六の宮の姫君』以降は文芸史に興味がない者にとってはちょっとつらいかもしれない。個人的にはそれなりにおもしろく刺激を受けた。とくに文芸史に関心があるわけではないけれど「表現」には興味がある。「円紫師匠と私」では、落語をはじめ、多様なジャンルの表現について触れられている。

北村薫の創作表現講義も興味深かった。

高校のとき、文学史の教科書にいろんな本のあらすじが載っているのがおもしろくてよく読んでいたことを思い出した。また数年前、作文の上達に役立つかと思い、ふと俳句を始めて挫折したことも思い出した。当時はまだ夏井いつき先生はテレビに出ていなかった。こんどは短歌をやってみたくなった。

作文教室をしていると、表現についてよく考えさせられる。どこまでわかりやすく、またどこまで個人的なことを伝えるのか。個性を大事にし過ぎて、わかる人がわずかでもいいのか。ほかの誰でもない自分をどこまでさらけ出す必要があるのかとか。いろいろ思うところがある。

短歌はとことん読む人に委ねてしまうところがいい。俳句も同じかもしれないが、俳句はより洗練されて研ぎ澄まされた印象があって、敷居が高い。どんな表現も自由に好きなように受けとればいいとはいえ、正確に伝えるという意味では困る場合も少なくない。

いさぎよく表現した作品を手離して、誤解も含め、わからないのもわからないまま鑑賞し合う短歌文化はなかなか素敵だと思う。


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