なんのために生きるのか

小さい頃から分からなかったことがある。

なんのために生きるのか。

当時子どもだった私がとりあえず出した仮の答えは
「子どもを産み育て、子孫を残すこと」

だった。

私が自分のルーツとして強く意識していた親の実家は旧家で、
ひいひいばーさんがどういうドラマを経てひいじーさんを産んで、
などといった親が生まれるよりも前の話を聞くのを子ども心に楽しんでいた。
私にとって自身の存在は、
自分の先祖と子孫の間のチェーンを繋ぐひとつの輪っか
という意識であった。

だって、私はせいぜい100年かそこらで死んでしまうはずで、
どんなに偉くなったって死んだら終わりだけれど、
人類という種には一応寿命はないのだから。
チェーンの長さに、上限はない。

 しばらくして「子どもを望んでもできないこともある」と知ってからは
上記の答えに「※場合によっては養子養女をとって、自分たち家族の歴史や文化を継承していく次世代を育てること」という注記が加わった。

どこかツッコミどころがあるような気もしたが、一旦ペンディングしたあと、この答えはこれ以上アップデートされることなく、私は大人になっていった。


ただ、上記を解とした時に、まだ解消しない問題があった。

子どもが育ってしまって、その後子孫に影響を全く与えない状況になってからは、何を目的に生きたらいいのだろう

祖母は50代半ばで未亡人になり、その後10年ほどは私たち家族と同居していたが、
親の仕事の都合で私たちは隣県に引っ越し、祖母は亡くなるまで20年近く一人暮らしをしていた。

一人暮らしを始める頃には年金生活だった。

私たち家族は、頻繁に祖母宅に泊まりがけで訪れていたし、
田舎なので近所の人達がみな遠い親戚のような関係でそれなりに往来はあった。

私たち孫にお小遣いをあげたり進学を喜んだり、手慰みに畑仕事をしたり、自分の娘たちと時々温泉に出かけたりと、楽しみは十分あったと思う。

ただ、なんのために生きるのだろうという答えを探していた私には、
祖母がこの状況で自律的に生活出来る理由が分からなかった。

もし仮に祖母が1人で生活している時に急死したとして、それが明日なのか明後日なのかで、世の中に全くなんの影響も与えないかもしれない。

そんな生活の中で、
どうやって朝布団から起き出し、
自分一人の朝食を準備して食べ、
様々な日常の家事をこなし、
夜、床に臥すまで過ごしていけるのか
が分からなかった。


あれから20年近くたった今でも、私はよく考える。
私は祖母と同じ立場になったら、
もう、朝布団から起き上がるのをやめてしまうのではないか。
ご飯を口に運ぶことをやめてしまうのではないか。


今わたしには子どもがいるが、
もしこの子が不幸に遭い、この世からいなくなることがあったとしたら、
そしてこの先新たに子どもを持てる見込みもなかったら、
私は生きつづける意味を見つけられるだろうか。


結婚や子育てをせず(もしくは終えて)独りで生きていくつもりで生活している人にある人間の芯のようなものが、
私には決定的にない

でも、家族より先に死なない限り、いつかはきっと、向き合わなければならないのだ。

不幸な出来事が起こったら想定よりもずっと早く。


私が明日死んでも明後日死んでも世の中何も変わらなかったら?

いや、何か今日生きた足あとを残したい。

もしある日仕事が出来なくなっても、社会とつながり今日生きた証を積み重ねていきたい


なんのために生きるのか、まだ答えは見つからないけれど、
1日生きた分だけなにかを残したい、そう思って、noteを書こう、と思った。




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