俺とYMOの話

通い始めた保育園でもらってきたであろう風邪を娘からプレゼントしてもらった。
昨年11月のコロナを除けば久しぶりのこじらせっぷりで、会社も休んでしまった。
現在、38度近かった熱は解熱剤で落ち着いている。徒然としている。さて、どうしよう。
そういえば後輩が書き物をしていたな。大人しくしつつも何か書いてみよう。
って感じでここから先が本編。

最近になって俺の好きなアーティストが立て続けに亡くなった。
高橋幸宏と坂本龍一だ。
2人は1970年代後半に「Yellow Magic Orchestra」通称「YMO」というテクノバンドで活動しており、先に海外で話題になったのちに日本に逆輸入する形で人気を博し、以降は国内外問わない音楽シーンに大きな影響を与えた。
1989年生まれの俺が当時の人気を生で感じることはできない訳だが、いつからその魅力に取り憑かれていたのだろうと思い返してみた。

俺の親父は自らギターも弾く大の音楽好きであり、特にジャズに関しては造詣が深く、寝室の本棚を埋め尽くすほど大量のCDを所持していた。
俺はその影響を受けており、世間の幼児は到底聞かないだろうと相場で決まっているような音楽を聞いて育ってきた。
とはいえ俺自身は特に楽器を習っていたわけでも嗜んでいたわけでもなく、小学5年生の頃に親父が気まぐれにハードオフで買ってきてくれたキーボード(たぶんCASIOのCTKシリーズっぽい感じの奴)から俺の楽器生活が始まった。
なぜかこれが大ハマりして、トルコ行進曲やチョップスティックスを弾き狂っていたのを覚えている。もちろん右手でメロディを弾くだけである。

そんな背景はさておき、日本で最も知名度のあるYMO楽曲と言えば、やはり「Rydeen」。
おそらく俺が初めて自発的にYMOに触れたのは、おふくろが当時持っていたdocomoのN503iという携帯電話に内蔵されていた同曲の着メロだろう。
暇があれば貸して貸してとねだり、聞きながらメロディをコピーしてキーボードで弾いた記憶がある。
この頃にはベース音も左手で弾けるようにはなっていたのかな。
また、N503iか後継機かは忘れたが、着メロを手打ちで作成できる機能が付いており、勝手に打ち込んだ記憶もなかなかに懐かしい。
そもそも「着メロ」という死んだ響きが何よりも郷愁感を醸してくるわけだが。

そこからYMOの存在を知ったのは間違いないが、本格的にハマったのはもうちょっと後のことだった。
俺が中学2年か3年の時、親父が押入れを整理していたら出てきたというカセットテープを俺に聞かせてくれた。
それは1979年のYMOのロサンゼルス公演のラジオ番組を録音したものだった。

これがものすごい衝撃だった。
これまで音楽には触れてきたものの、本格的に学んだことすらなかった俺には何が良いのか全く説明できない。
でもそれは、確かに俺の音楽嗜好を決定づけた。俺はこれが好き、と。
ちなみに上に貼ったCD版は、元の音源から大きく脚色加工されている。
トータルとしてすごく良いCDなのだが、「Tong Poo」の主題が置き換えられていたことに大きく落胆したのはさらに数年後の別の話。

そこからはドップリと頭の先までYMO漬けになる。
特にL.A.公演の「Thousand Knives」と「Tong Poo」に魅了された俺は、今度は原曲が聞きたいと考え、親父におねだりをした。
当時自宅から車で10分ほどのところにあった「サウンドユー」という中古CDショップに連れて行ってもらい、お目当ての2曲が入ったCDを探す。
そこで見つけたのが下のCDだった。

「すみませんお父様、これが欲しいです。」
手に取ったこれは3,800円か4,800円だったと記憶している。新品CDよりも高い。
しかし親父は快く買ってくれた。今思うと、内心では高ぇなと思っていたのかもしれない。
現在でも割とそうなのだが、共通項の音楽に俺が興味を示すと金額に糸目をつけない気前のよい親父だ。
念願の音源を手に入れた俺は、ここでも更なる衝撃を受ける。
「なんだよこのThousand Knives…」
L.A.公演の小気味よい軽快なリズムとメロディアスなキーボード・ギターソロのThousand Knivesの姿はそこにはなく、重厚でダークで気でも病んでいるんじゃないかというアレンジのThousand Knivesだった。
とにかく、最高にCoooooooooooooolだった。

次に間もなくして手に入れたCDは「公的抑圧」だっただろうか。
このCDにもL.A.公演の「Cosmic Surfin'」という曲が収録されているのだが、「親父からもらったテープ音源と全然違うぞ…?というか、同じ曲でも公演ごとにアレンジが全然違うのか…?」といった風に、知れば知るたびにいろんな面が見えてくるYMOの虜になっていた。

ここからは「YMO 活」と並行して、「坂本龍一 活」が始まる。
というのも、この公的抑圧というCDを手に入れてからようやく、「Thousand Knives」や同CD収録の「The End of Asia」が元々坂本龍一のソロ曲であることを知ったからだ。
となると次に欲しくなるのは、この2曲のオリジナルが収録されている坂本龍一の1stアルバム「Thousand Knives」だ。

突然だが、俺は「ずっと昔の曲なのに、古さを全く感じさせない」という輩が好きじゃない。
古い音楽は古いだろう。古さを感じないのは貴様の脳をアップデートできていないからだ、と吐き捨てたい。
俺としては「昔の曲なのに新しく学べることが多い」が正しいと思っており、坂本龍一名義のこのCDを聞いて心の底からそう思った。
既に3種類の全く違う顔のThousand Knivesを耳にしている俺は、楽曲において一番大事なことはアレンジする力なのだ、などといっちょ前な持論を持ち始める。

高校に入学し、同時にMDコンポとMDウォークマンという無敵になれるアイテムを手に入れる。
さらに、昼飯代をもらうようになった俺は昼飯を我慢して貯めた金でCDを買うようになる。おふくろよ、ごめん。
親父のカセットテープやCD音源をMDに落とし、片道1時間の通学路でひたすら聞き続けた。
この頃さらに親父からは「KYLYN」という、これまた高橋幸宏や坂本龍一が1978年ころに参加・活動していたユニットの存在も教えてもらったなぁ、と。

もし願いが叶うなら、1978年あたりに親父の友人として生まれ変わってあんたと一緒にライブ観に行きてぇよ。
前述のとおり親父はジャズ畑の人間のため、そこまでYMOには興味がなかったんだと思う。
でも俺がYMOにハマると一緒に楽しんでくれるどころか、俺の嗜好を汲み取って「お前ならこれも気に入るんじゃないだろうか」といった感じでBob Jamesなどストライクなアーティストも的確に教えてくれた。
また、父親の他に兄貴からもよく影響を受けていた俺であったが、兄も俺の音楽嗜好に大いに理解を示してくれており、スペシャかM-ONかなにかでやっていた「ROCK IN JAPAN FES 2005」に出演した坂本龍一の演奏を録画してくれていたこともあった。
こう考えると恵まれた音楽教育をしてもらっていたのかもしれない。今気付くようじゃダメだな。

高校高学年になると、坂本龍一のピアノ曲に傾倒していく。
それまでピアノ曲なんて退屈なだけだと思っていたが、当然YMO曲のピアノアレンジ曲が収録されていたことがその方向へ歩を進めるきっかけになった。
おそらく俺は熱しやすいタイプの人間なのだろう。
ここでもドハマりした俺はいよいよ本格的に88鍵のキーボードを手に入れ、YMOのコピーや氏のピアノ曲の練習を始めた。

さて、では身の回りで親父・兄貴以外にこの音楽嗜好が似通った人物はいなかったのかというと、実はただ1人だけいた。
小学校高学年~中学まで一緒で、中学3年生の文化祭で一緒に漫才をした相方のA君だ。
彼も中高生としてはまた特殊で、T-SQUAREやCasiopeaなどの和製フュージョンバンドが好きだった。
そちら方面も親父から教えてもらっていたため、高校は違えども趣向が同じA君とはお互いの好みの音楽を一緒に聞いてよく遊んだ。
羨ましいことにMacBookを所持していたA君は楽器こそできないもののセンスの塊であり、通常の会話を録音してGarageBandなどでマッシュアップし、さながらスネークマンショーのような楽曲を作っていたりした。
そんな彼との一番印象的な思い出としては、坂本龍一の「playing the piano 2009」というツアーの仙台公演を一緒に観に行ったことだろう。
3階席の前から2~3列あたりで、小さくはあるものの生の坂本龍一の姿をきちんと捉えることのできる席だった。
当然全演目よかったが、中でも「Self Portrait」の冒頭2音を聞いたときは全身が震え上がった。
世の評価的には、坂本龍一はピアニストとしてあまり優れていないのかもしれない。
しかし彼のデビューから30年近いキャリアを詰め込んだかのようなソウルフルな内容に、俺とA君はとにかく終始圧倒された。
コンサート終了後、A君とは余韻に浸りながら言葉少なに仙台駅まで歩いた。
そんなA君とは惜しくもその後疎遠になり、今では全く連絡を取らなくなってしまった。どこで何をしているのかもわからない。
しかし、後にも先にも'80前後の音楽の話で盛り上がれる友人は彼の他にいない。

大学に入ってからはパソコンで音楽を作るDTMを始めた。
PCとキーボードを接続し、演奏したMIDI情報をPC記録して、今度はキーボード側に出力しながらセルフ連弾をするといった、まさに坂本龍一ごっこをして遊んだ。
ボコーダーが付いたハードシンセを買い、YMOの「Simoon」や「Behind the Mask」のコピーもした。
シンセの勉強から派生してMIDI検定2級や映像音響処理技術者資格なるものも取得した。今の職では一切何の役にも立たないというオチ付き。
とまぁ、こんな感じで節操なく音楽に対して自分なりに色んなアプローチをしてきたのだが、やはりすべて源流にYMOがいることは間違いない。

ここまでつらつらダラダラいろいろと書いてきた訳だが、誰に何が言いたくてPCを起動したのかというと、別にそんなものは何一つない。
ないけれども、高橋幸宏と坂本龍一の死が、俺の音楽半生を振り返るきっかけになったというだけのこと。
YMOの思い出は、俺にとって親父や兄貴や友人との思い出に直結する。
「むかし一緒に遊んだあの遊園地がなくなった」というのと同じ感覚。
高橋幸宏・坂本龍一が死ねば、細野晴臣も松武秀樹も渡辺香津美も矢野顕子もいずれ死ぬし、親父もおふくろも兄貴も友人もいずれ死ぬし、俺や妻もいずれ死ぬ。
近かれ遠かれ、俺の「その時」が来たときに「あいつとの思い出ってなんか良かったなぁ懐かしいなぁ」って誰かに思ってもらえるような人物でありたいと切に思う。

高橋幸宏と坂本龍一。あなた方の音楽、なんか良かったよ。ありがとう。

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