見出し画像

40代のうちにやりたかったことをやる旅 - マドリード編 -

思い起こせば29歳の8月、同僚の悪友(同い年)の策略によって20代最後記念に富士登山をする羽目に。登山はつらかったけどいまとなれば本当にやってよかった。富士山を見たとき「嗚呼あのてっぺんに行ったんだなぁ」というものすごい達成感が一生つきまとうからです。それから20年。40代最後記念に、わたしは”やりたいことリスト”から2つを選んで実行することにしました。

プノンペンからマドリードへ

8月17日、午前中の補習校での仕事が終わってからプノンペンの自宅を出てタクシーでプノンペン国際空港へ。そこからバンコクとミュンヘンを経由してスペインのマドリードに到着したのが、8月18日の午後。トランスファーも含めて24時間がかりの移動でした。お酒を飲んだり寝たりしてエコノミー席にしっかり収まるお行儀がよい乗客だったのが奏功し? ミュンヘンからマドリード行きのルフトハンザ航空の搭乗口でチケットをスキャンした際、幸運の小さなレシートを受け取ったのです。”Change seat, new seat Business Class…”と書いてあるやつ。ちょっと早い誕生日プレゼントかしら。ドイツからスペインまでの上空でローストビーフに赤ワインなどいただきながら到着した幸先よい旅でした。

マドリードでやりたかったこと

日本に住んでいたころ、洗濯をすればベランダがしましまになるくらい、ボーダーのTシャツを着ていたわたし。セントジェームスを好んで着ていたのですが、お察しの良い方はおわかりでしょう。はい、わたしはピカソが好きなのです(ピカソはいつもセントジェームスのボーダーTを着ていらっしゃった)。数年前バルセロナのピカソ美術館に意気揚々と出かけたのですが、あるものがないことに気づきました。ゲルニカ。好きと言いながらこれは無知の極み。ゲルニカはマドリードにあると知って、いつか見に行きたいと思っていたのです。それから原田マハさんの『暗幕のゲルニカ』が面白かった! ”やりたいことリスト”の上位に「ゲルニカを見る」を入れておいたというわけです。ということで、今回の旅の目的のひとつがゲルニカを見に行くこと。プノンペンを出発する前にゲルニカが収められているレイナ・ソオフィア芸術センターのチケットを購入しておきました。8月19日の朝、10時オープンとともに入場し、真っ先に2階のゲルニカがある部屋に向かいました。

いまだからゲルニカ

びっくりしました。大きくて圧倒的。深呼吸をしようとして息が止まってしまった人のような顔になっていたかもしれません。それくらい圧倒的。わたしの他にはひとりの女性しかいなく、他のお客さんはこの部屋にまだ到達していなかったのですから。贅沢な空間でゲルニカを鑑賞できました。1937年のパリ万国博覧会の展示物として製作された大きな作品ですが、2024年だからこそ鑑賞したい作品でもあります。バスク地方のゲルニカという街を突然無差別に攻撃したドイツ軍への怒りがエネルギーとなって製作された大絵画。「炎に焼かれる女性、武器が刺さった馬、死亡した子どもを抱いて泣く女性、亡霊のような馬が攻撃の悲惨さを表している。」インターネットを見てもその程度の解説しかなく、ピカソはゲルニカについては多くを語らなかったと言われています。解説するのではなく、鑑賞する人が感じとってくれとピカソは言いたかったのでしょうか。いま、世界では複数の場所で戦いが起こり、まだまだあちこちゲルニカなのが残念です。国の大決断をする偉い方々はこぞってゲルニカを見たらいいのに、と一市民は思ってしまいます。

絵画は、鑑賞する

レイナ・ソオフィア芸術センターは写真撮影が許されている美術館です。ゲルニカしかり。しかし、気になったことがあります。世界中からやってきた観光客は、ゲルニカの絵の前に立って写真撮影をして帰ります。わたしと同じ、旅の目的地のひとつに到達したという人も多くいるのでしょう。でもね、ゲルニカは観光資源である前に、絵なのですよね。その絵に背中とお尻を向けてカメラの前でポーズをとって、そして、「はい、OK、次! 」みたいに去っていく人たちに少しがっかりしました。せっかくの絵、向き合って、正面切って鑑賞した方が思い出になると思うのです。カメラに収めるより脳裏に焼き付けてしまったら一生ものなのになぁ。記念撮影もいいけれど、そこを忘れないようにしたいと再認識させられました。

目的を早々にひとつ達成して満足したわたしは、昼間っからバルに行き、ひとりピンチョスと語らいながら、セルベッサをぐびぐび梯子酒をして、マドリード滞在2日目に乾杯をしたのでした。次の目的はポルトガルにあるのですが、まだもう少しスペインに滞在させていただきます。
おあとがよろしいようで。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?