デイトンに乗った王子様。(志賀直哉『自転車』感想)

 『ちくま日本文学021 志賀直哉』に収録されている『自転車』を読んだ。
 志賀直哉といえば中学生のころ『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『城の崎にて』を読んだ記憶がある程度で、それ以外の作品や作者自身の生涯などについては恥ずかしながらほとんど知らなかったのだが、そんな読者にとってこの『自転車』は、じつに衝撃的な短編だった。

 『自転車』はタイトルどおり「ほとんど自転車気違いといってもいいほどによく自転車を乗廻わしていた」少年時代の回想を描いたものだ。

学校の往復は素より、友達を訪ねるにも、買物に行くにも、いつも自転車に乗って行かない事はなかった。当時は自動車の発明以前であったし、電車も東京にはまだない時代だった。乗物としては芝の汐止から上野浅草へ行く鉄道馬車と、九段下から両国まで行く円太郎馬車位のもので、一番使われていたのはやはり人力車だった。
 その頃、日本ではまだ自転車製造が出来ず、主に米国から輸入し、それに英国製のものが幾らかあった。英国製は親切に出来ていて、堅実ではあったが、野暮臭く、それよりも泥除け、歯止めなどのない米国製のものが値も廉かったし、私達には喜ばれた。

 子供が実用性より格好良さを重視したがるのは昔から変わらないんだな、と思うと微笑ましさを感じる。いまでいうと「ママチャリじゃなくてロードバイクが欲しい」という感覚だろうか。
 しかし、米国製の自転車は廉価だ、とここでは書かれているが、この短編が「衝撃的」だと先に書いた理由の説明を、ここから始めることにしたい。

 私の自転車はデイトンという蝦茶がかった赤い塗りのもので、中等科に進んだ時、祖父に強請んで買ってもらった。

 志賀直哉が学習院中等科に進学したのは1895(明治28)年9月のことだ。
 Googleで「明治時代 物価」と入力して検索すると、当時の1円は現在の2万円に相当するほどの価値がある、との情報が出てくる。
 また「明治時代 自転車 値段」で検索すると、明治時代の自転車は400万円くらいの高級品だった、という説が出てきて驚かされる。その高価さだけでも衝撃的だが、それを「祖父に強請んで」買ってもらえる中学生が存在したことには唖然とするしかない。もっとも「私のデイトンは百六十円で買ったものだが」とあるので「1円=2万円」説で考えれば、志賀直哉の自転車は320万円くらいだったことになるが、400万も320万もこの際たいして変わりあるまい。令和の感覚では最新モデルの大型バイク(新車)を買うのと同じかそれ以上の買い物で、そんな代物を中学にあがったくらいの子供に買ってやる、というシチュエーションはなかなか想像しにくい。
 『ちくま日本文学021 志賀直哉』カバー折り返しの紹介には「祖父直道、父直温ともに成功した実業家」との一文がある。サラッと書かれているが「祖父も父も『成功した実業家』で、学習院に通う少年」の生活というのがどれだけすごいか、その一部は『自転車』を読むとわかるが、読めば読むほど、庶民にはどこからどう手を伸ばしても届かない感のある別世界ぶりがあまりにカジュアルに書かれていることに圧倒されてしまう。
 少年は愛車のデイトンでいろんなところへ出かける。「江の島千葉などへ日帰りの遠乗りをした」り「横浜往復の遠乗りは数えきれないほどにした」りというのは、10代の男子にしてもかなりの体力ではないかと思う。昔の人だからだろうか。それでもすごいものだ。で、そんな遠乗りをしては、蕎麦屋へ行ったり、横浜なら「居留地の商館」で「新しい車」(新しく輸入された自転車だと思われる)を見せてもらったり、輸入品の衣服や雑貨を扱う「唐物屋」で買い物をしたりするのである。

私は山尾三郎という友達と柳原の通りを真直ぐに万世橋に出て、連雀町の蕎麦屋に行った。腹をへらしていたからよく食った。最後に何か今まで食った事のないものを食おうと、釜揚うどんを取り、不味いものだと思った記憶がある。

 蕎麦屋で蕎麦を「よく食った」うえで、食べたことのないものを食べたって美味いと感じるわけがない。なんだか、自分が釜揚うどんになって、無邪気な人間に不当に貶められたような、イヤな気分になるくだりである。生まれついての金持ちには悪気なく他人を不快にさせるダメなところがある。貴族的な人間の鷹揚さと鈍感さはつねに紙一重だ。
 中学生が蕎麦屋に入るというのも、現代の庶民感覚ではちょっと異様なことだ。私にとっては、蕎麦屋、それも東京の蕎麦屋というのは、大人がひとりか、せいぜい二、三人程度で粋に楽しむところで(鮨屋のカウンターとイメージが近いかもしれない)子供らが自転車遊びのついでに満腹になるまで食べるというのは考えられないことだった。
 蕎麦屋も驚くが、横浜では、こんなふうだからさらに驚く。

 私達はケリー・エンド・ウォルシという本屋にも、レーン・クロフォードという唐物屋にもよく寄った。ケリーでは子供らしい絵本とか、クリスマスカードのようなものも買ったが、主に文房具類を買った。(中略)レーン・クロフォードではどんなものを買ったか覚えないが、私達は明治生れの「上等舶来」趣味で、銀座辺のものよりは洒落ているような気がしていた。
 飯は公園近くの小さな西洋料理屋へ行った。グランドホテルとかオリエンタルホテルなどは荷が勝ち過ぎて行った事はなかった。

 「荷が勝ち過ぎて」という考えがそれでもあったことにちょっと安堵するが、「小さな西洋料理屋」といっても、やはり中学生だけで行って食事するようなところとは私には思えない。私は明治の昔、学習院の生徒たちが、ハイカラな街並みを自転車で颯爽と駆け抜ける様子を想像した。そうして、居留地の商館で、「上等舶来」趣味の文房具類を買い、後日「日曜日に横浜へ行ってきたのさ」などと、学校で級友に披露している様子も想像した。なんという、優雅で文化的で裕福な生活だろう。私にはそんな生活をした経験はないし、これからもできる見込みはないから、ただもうむやみに羨ましくなるし眩しく思う。
 しかしここでふと考えたのが、大袈裟かもしれないが、読書の「功罪」についてである。本に書かれている物事と読者とのあいだには、実際にはさまざまな意味でたいへんな隔たりがあるが、読書という行為において読まれる本と読む人間との関係は形としては対等、それどころか読者のほうが優位に思えることさえある。
 そのため読書量に比して実生活での困難や挫折の経験が少ない人間が、やりもしないのにやりたいことはできると思い込んだり、住む世界が違う人々と自分を本気で同等の存在だと勘違いしたりする不幸な例がたまに発生する。頭でっかちゆえの不幸である。だから、たとえばここで、私が明治時代の裕福な少年の生活を羨む(すなわち自分にも可能だと思う)のもその手の勘違いであり、読書の「罪」であろう。

 さて『自転車』に戻ろう。

 自転車での遊びは遠乗りだけではない。自転車どうしの競争もあったようだ。

 私達は往来で自転車に乗った人に行きあうと、わざわざ車を返し、並んで走り、無言で競争を挑むような事をした。時にはむこうから、そういう風にして、挑まれる場合もあった。

 『頭文字D』や『湾岸ミッドナイト』の自転車バージョンだ。若さも体力もあるから、数少ない(と思う。超高級品だし)自転車を見かけたときの仲間意識と対抗意識の燃え上がり方は激しかっただろう。また、荒俣宏『帝都物語』の未来宮編で、自転車乗り(サイクラー)と呼ばれる人々が帝都を疾走し通行人を襲うという物騒な遊びが流行するくだりも連想した。スピードの出る乗り物に乗るのは楽しい。自分で運転するならなおさらだ。超人的な力を手に入れたような陶酔感がある。その気持ちはわかる。
 しかし、やがて曲乗りするための改造を施したために、デイトンではスピード勝負の競争ができなくなる。それでこんなことが起こる。

 どこの帰途であったか、私はその車で、上野の清水堂の前から広小路の方に走っていると、背後から来た二人連れの車に挟まれ、競争を挑まれたが、その車ではもう競争は出来ないので、不意に一人の車の前を斜に突切って、対手の前輪のリムに自分の後輪のステップを引掛け、力一杯ペダルを踏むと、前輪が浮いて、その男は見事に車と共に横倒しに落ちた。二人とも私よりは年上らしく、一人と二人では敵わないから、一生懸命に逃げた。

 とっさにこんなことができる運動能力もたいしたものだが(志賀直哉はスポーツ万能だったというし)度胸もたいしたもので、お坊っちゃまではあるがそれなりに喧嘩なれもしていたのだろう。
 それから、『自転車』では、古くなったデイトンに代わり新しい自転車を入手するにあたっての、金銭絡みのちょっとした(だが少年にとってはそれなりに深刻な)モヤモヤとするような出来事が描かれるが、その出来事における自分の罪を自覚させたのが教会で聞いた牧師の説教だったこと、祖母が黙ってお金を出してくれたのもあって解決したことが、志賀直哉らしい清々しい調子で綴られて終わる。
 最初は単なるブルジョア日記みたいな印象ではあるが、読み終えると、なんだかんだで最初から最後までスムーズに読ませる筆力と、物心ともに恵まれた環境とキリスト教精神に由来するのであろう独特のヒューマニズムに感嘆する。
 もっとも「筆力」に疑問をもつ向きもあるだろうし、「ヒューマニズム」が苦労知らずのお坊っちゃんのたわごとに過ぎないと嘲笑する向きもあるだろう。
 志賀直哉は「小説の神様」といわれたほどの作家だが、その作品は、現在はあまり積極的に読まれていない気がする。というのは、今回、感想文を書くために志賀直哉の本を探しに書店へ行ったが、置いてあるのが集英社文庫版の『清兵衛と瓢箪・小僧の神様』くらいだったからだ。太宰治や谷崎潤一郎作品などの充実のラインナップとはえらい違いのように感じられ、神様にしては、寂しい扱いだなあと思った。
 そういえば「文学の神様」といわれた横光利一の作品もまた、志賀直哉と同様、現在はあまり積極的に読まれていない気がする。
 志賀直哉は横光利一の作品を評価していなかったらしいが、横光利一に師事した森敦によれば、横光は「志賀直哉に参ったよ」と言っていたそうだ。

「前にも話したが、横光さんは、志賀直哉に参ったよ、と言ってたんだよ。何に参っていたかというと、視線なんだ。主人公の視線が、揺るぎなく、乱れることがないということに、だ。外国の小説は、案外とルーズだが、志賀直哉の影響で、日本の現代小説は視線の問題では不自由になってしまったんだ。しかし『暗夜行路』は違うんだなあ」
(森富子『森敦との対話』181頁より)

 たしかに小説を書くときも読むときも、重要なのは「主人公の視線」だと気づかされる。この「視線」がブレるのはおそらく多くの書き手がやらかしがちなことだろうし、読む側にとっても「視線」のブレが甚だしい小説ほど読みづらいものはない。

 横光利一、森敦を引き立て世話をした菊池寛も、志賀直哉の作品を激賞している。以下、菊池寛『志賀直哉氏の作品』からの引用である。

リアリズムを標榜(ひょうぼう)する多くの作家が、描かんとする人生の凡(すべ)ての些末事を、ゴテゴテと何らの撰択もなく並べ立てるに比して、志賀氏の表現には厳粛な手堅い撰択が行われている。
志賀氏は、実にうまい短篇を書くと思う。仏蘭西のメリメあたりの短篇、露国のチェホフや独逸のリルケやウィードなどに劣らない程の短篇を描くと思う。
短篇の中でも「老人」は原稿紙なら七八枚のものらしいが、実にいい。説明ばかりだが実にいい(説明はダメ飽くまで描写で行かねばならぬなどと言う人は一度是非読む必要がある)。

 ベタ褒めである。KKBB。キクチカンベタボメ。チェホフに勝るとも劣らない。とは、作家にとって、たいへんな賛辞だと思う。
 ここで菊池寛は「説明はダメ飽くまで描写で……」云々と述べているが、考えてみれば「ダメ」といわれるたぐいの「説明」というのは、自称リアリズムの書き手が「これぞ、リアリズム」「これぞ、私小説」などと得意がって「描かんとする人生の凡(すべ)ての些末事を、ゴテゴテと何らの撰択もなく並べ立てる」ことであり、志賀直哉がその鋭い観察眼ですくいあげたものを慎重かつ大胆に取捨選択し配置してゆく手法は「説明」でありながら「説明」を超えたものとして成立しているのではないか、と私は思う。
 そしてそれは「描写」ともまた異なるもので、この手法こそが志賀直哉の独自性であり作品の力なのだろう。
 この、シンプルに見えて難易度の高い書き方は、ふしぎと坂口安吾(彼は『志賀直哉に文学の問題はない』で、志賀の文学的態度を批判しているが)が『意慾的創作文章の形式と方法』において、

「雨が降った」ことを「雨が降った」と表わすことは我々の日常の言葉も小説も同じことで、「悲しい雨が降った」なぞということが小説の文章ではない。
 勿論(もちろん)雨が「激しく」降ったとか「ポツポツ」降ったとか言わなければならない時もある。併(しか)し小説の場合には、雨の降ったことが独立して意味を持つことはまず絶対にないのであって、何よりも大切なことは、小説全体の効果から考えて雨の降ったことを書く必要があったか、なかったか、ということである。
まことに小説の文章ほど計算を要するものはない。小説を一言にして言えば「計算の文章」である。

などと述べている、その模範のようにも思えてくるのである。





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