「幽明の境」を見た人。(川端康成『掌の小説』感想)

 『掌の小説』を読むとき、私は森敦の言葉を思い出す。森敦が、文学の弟子であり、のちに養女となる森富子に、小説について教えたときの言葉だ。

「小説とは、純文学であろうとも、エンターテイメントであろうとも、探偵小説であらねばならぬ。分かるかな。例を挙げてみよう。読みなさいと言った『罪と罰』も、堂々たる探偵小説だ。それから……」
(森富子『森敦との対話』79頁より)

 森敦のいう「探偵小説」とは、むろん、単に犯罪トリックを扱った小説ということでない。「読者を引きずっていく」小説、ということである(このとき彼が『罪と罰』のほかに挙げたのはヘミングウェイの『殺人者』とカフカ『死刑宣告』だった)。
 森敦は横光利一の弟子筋にあたる人物で、川端康成とも面識があった。私が川端康成と森敦の言葉とを結びつけて考えるのは、そうした事実に基づく単純な連想でもあるが、『掌の小説』におさめられた掌編の数々が、読者を惹きつけながら見事に結末へと導く「堂々たる探偵小説」になっていると感じるからだ。
 たとえば『金糸雀』がそうだと思う。『処女作の祟り』も。『叩く子』もそうだし『舞踊靴』もそうだと思う。『屋上の金魚』も。『恐しい愛』も。『わかめ』もそうだ。いや。文庫本の頁をせわしく左右にめくりながら、何々も何々も、などと、こんなふうにタイトルを一つひとつ挙げていくことはないかもしれない。この本に収録された掌編を、とにかくどれでもいい、読みはじめれば、間違いなく魅了されて(森敦流にいえば「引きずって」いかれて、ということになるか)結末に、ぞくっ。とする。

 また、『掌の小説』には、「Jホラー」を思わせるところもしばしば見受けられる。先に挙げた作品は、みな「探偵小説」であると同時に「怪談」だ。『顕微鏡怪談』なんていうタイトルの掌編もこの本にはあるが(もちろん怖い話だ)きわめて日本的な恐怖と不気味さに満ちた世界がそこにはある。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』的な視点を、ホラーふうにあらわしているともいえるかもしれない。仄暗く湿った場所に、なにかがひっそりと息づいている気配が漂う。そういう繊細な性質の怖ろしさである。怖いだけではない。もれなくエロティックだ。怖い、プラス、エロティックで、夢まぼろしのようで、あやしくはかなげな美しさがある。日本ならではの風流も美も恐怖も、全ては薄暗く、独特の「間」が生きる場所において発生するのだ。
 そんなところは骨董品の美にもまた通じるし、川端康成という作家の姿に見え隠れする死の翳りを感じさせるようでもある。

 私は長く川端康成が苦手で、というのは、有名な『伊豆の踊子』や『雪国』は、じつはこんなにエロティックな小説なのだ、という解説ふうの文章を読んだりしたことがあったせいだ。いい齢してかえって恥ずかしい話のようだが「本当はこんなにエロいナントカ」みたいな話は基本的に好きではない。避けたい。格調高いとされている作品のエロティックな部分を発見し楽しむのが大人の文学鑑賞、という考え方もあるようで、それも鑑賞法のひとつではあるかもしれない。とは思っているが賛同はしない。どうも乗れない。
 『掌の小説』でも「貧しい法科大学生」が、山の温泉場の湯船で出会った「芸者家の子」とわかる少女に蛋白石の指環を見せられる話(『指環』)など、「本当はこんなにエロい川端」の真骨頂という気がする。まだ「十一か十二」であり、年齢相応に無邪気なようでありながら、異性にしっかり媚態を示すことを知っている少女の危うさと末恐ろしさ、読んでいて自ずと想像されるその近い将来の姿に、不安な、イヤな気持ちにさせられる。
 しかし、イヤな気持ちになりながら、それ以上に「温かく柔かに光っている卵色に紫を含んだ」蛋白石や、金で特別に作らせたという指環が少女の細い指に嵌まっている、そのアンバランスな美しさに惹かれ、同時にその光景が鮮やかな色彩で目に浮かぶ気がして、そこにぐっと心を掴まれてしまう。

 ここでまた、森敦が、森富子にこんなことを言っていたのを思い出す。

「道で会った女の子は可愛かった。赤いスカートもよかった」
「えっ、赤いスカートだったかしら?」
「きみは駄目だなあ。作家には観察する眼が必要なんだ」
 (中略)
「志賀直哉の『矢島柳堂』を読んでごらん。中に『赤い帯』というのがある。十四、五の赤い帯をしめた少女を、柳堂が出窓に腰かけて眺めている。赤い色が効いている話だ」
(森富子『森敦との対話』87頁より)

 小説におけるリアリズムとは単に写実のみに終わることではない。書き手の主観を一方的に書き連ねることでもない。と私はつねづね考えている。
 森敦は志賀直哉の作品を挙げているが、志賀直哉に限らず、すぐれた書き手(つまり「文豪」だ)は、同時にすぐれた観察眼と記憶力の持ち主であり、それを言葉にあらわす技術の持ち主である。そうして生み出された作品には、視覚だけではなく読み手の五感を刺激する力があり、その力こそがリアリズムと呼べるものではないだろうかと思うのである。

 『掌の小説』に戻る。五感といえば『貧者の恋人』がそういう意味で印象的な話だと思う。「レモンで化粧すること」が「唯一つの贅沢」であるという女の話だ。
 そういえば昔はこの話のようにレモンの果汁を化粧水にするとか、あるいはレモンを輪切りにして顔にのせるとか、そういう美容法があったなと懐かしく思い出す。レモン汁を浸ませたガーゼで歯をこすると歯が白くなるとか、なんにしても現在からすれば肌や歯にそんな強い刺激を与えるのはとんでもないことらしいが、その現在の常識とは大違いなところも含めて、かつての「贅沢」と、それを愉しむ女性の姿とに愛おしさのようなものを感じる。
 さてこの、レモンで化粧をする『貧者の恋人』の女の肌は「新鮮な匂いのように白くて滑か」で「乳房や腿」にまでレモンの果汁をすり込んでいる。

(略)──接吻して男は言うのである。
「レモン。お前はレモンの河を泳いで来た娘だ。──おい、レモンを舐めてネエブルが食いたくなった」

 こんなところも安定の「本当はエロい」というか「本当にエロい」というかそんな感じだがそれはともかく、レモンの黄色と、ひんやりとして精神が冴え渡るような酸味、若い女性の白い肌の柔らかさなど、文章をとおして視覚、味覚、触覚にそれらが触れた錯覚に陥る。

「この芝居のね、一幕はお前のためにレモンの林にしてやろう。レモンの林は見もしないが、蜜柑山の色づいているところは紀伊で見たことがあるんだ。秋のいいお月夜に大阪あたりからも大勢見物に行くんだ。月明りに蜜柑が狐火のようにぼつぼつ浮んで、まるで夢のともし火の海なんだ。レモンは蜜柑よりもずっと明るい黄色だからね。ずっと暖かいともし火だからね。舞台にだってその感じを出せば……。」

 戯曲家である男はそんなことを言う。夢のともし火の海にたとえられる蜜柑山。それよりずっと明るく暖かく輝くであろうレモンの林。ロマンティックだが、どこかこの世ならぬような不吉さものぞく景色が見えるようだ。この話の結末もそうだ。不幸な結末だといえるが、不幸であることを忘れてしまうくらい、ロマンティックで、美しい。読んだあとも、しばらく幻のレモンの黄色と、レモンの河を泳いてきたような女の肌の酸味が残っているような、じつに不思議な気持ちになる。これも危うい美しさを描いた、怖ろしい話だ。

 最初のほうで「『掌の小説』はJホラーを思わせる」と書いたが、谷崎の『陰翳礼讃』だけでなく、これもまた、森敦のエッセイに書かれていたことが、その連想の元になっていたかもしれない。川端康成の死を振り返って書かれたと思われる「白玉楼中の人」(『わが青春 わが放浪』所収)というエッセイである。

(略)好んで求めたように幽明の境へと近づいて行ったのだ。
 それを睡眠薬の使用によるとするのは簡単である。そして、それは精神医学的には正しいかもしれないし、そうも思いたいのである。しかし、美を求めて幽玄へと山道を一途に辿ろうとすれば、美もまた次第に誘惑しはじめ、ついには果てもなく奥へ奥へと引き込もうとするのではないかという、誘惑の戦慄を感じさせられぬわけにはいかない。
(森敦『わが青春 わが放浪』小学館P+D BOOKS版89頁より)

 ただ呑気な生活を送ってきた一読者の私には、想像することしかできないし、想像してもしきれない領域だと感じるのだが、川端康成の作品を彩るこの世ならぬような美しさと怖ろしさは、「幽明の境」に惹かれ、それをはっきりと見た人だからこそ描き得たものだったのかもしれない。
 そんな気がしている。


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