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【ネタバレ有】西村賢太『雨滴は続く』感想(その2/完結)

 ふたりの女性に失恋した貫多は、新川の古書店を訪れる。そして「葛山久子戦、川本那緒子戦の連敗譚」を語るのだが、新川は共感も憐みも示してくれない。それどころか、貫多に「お前さんのいつものパターンだよ」「まあ、自業自得だろうな。だってお前さんの一方的な話を聞いた限りでも、その川本さんって女性の方が、はるかにイヤな目に遭ってるじゃないか」と、冷ややかかつもっともな言葉を次々と叩きつけ、しまいに「全部、お前が悪い」と「“お前さん”から“お前”に呼び方を変えて、断を下すようにキッパリ言い放」つのだった。
 考えてみれば新川のこの反応は、無理ないのである。なにせずっと、女性のこと(「あんたの娘でもいいからさ」「そのご学友とか、何んとかなりゃしませんかね?」とまで言われるタチの悪さ!)や金のことでさんざん無茶な要求をされていたり、文芸誌の表紙に名前が載っていないと言って八つ当たりみたいなことをされたりしているのだから。その他、『雨滴は続く』以外の作品に書かれている出来事もあわせて考えれば、とうに絶縁されていたっておかしくはないのだ。
 が、新川のこの冷たさに貫多は逆ギレ。そのうえ、さっさと帰ればいいものをぐずぐずとその場にとどまり、知り合いで若い女はいないのかだのなんだのと懲りずに言ったりして、新川を本格的に怒らせてしまう。

「俺だってな、イライラしてんだよ! 今は仕入れ代やら事務所の家賃やら子供の学費やらで、死ぬほど大変な状況なんだ。お前みたいに失恋がどうのとか、雑誌の表紙に名前がこうのとかの、そんなどうでもいい、取るにも足らないような悩みなんかの比じゃない苦しい立場に追い込まれてんだ。(中略)もう、そんないろんな意味で聞き苦しい話はよしてくれ!」

(文庫版521~522頁)

 すみません新川さん。と、ただ読んでいるだけの私が、思わず反省してしまうようなセリフだ。社会人は、とくに自営業者は、いつだって忙しくいつだって大変なのだ。それなのにわれらが北町貫多は、怒り心頭の新川に、こんなことを言いやがるのである。

「だからよ、てめえの女房を抱かせろや」
(略)
「暇潰しで、挿れてやるよ。たっぷりと中出しもしてやるさ。あれも、まだアガっちゃいないんだろう?」
(略)
「幾らだ、値段を言え!」

(文庫版523頁)

 ゲス。そしてクズ。ゲス&クズの極み。ゲスと書いて北町貫多、あるいは北町貫多と書いてクズと読んでもいいくらいである。文芸誌に載るような小説、つまり純文学に、これほどわかりやすいゲスクズが登場するケースは(私が無知なだけかもしれないが)あまりない気がする。わかりやすすぎて、ここまでくるとむしろ清々しい印象さえある。

 もちろん、ただですむはずがない。クズには相応の罰が与えられるものだ。

「……このやろう!」
 絶句していたはずの新川は、とてつもない怒りのエネルギーがこもった一声を放つと同時にガタタと席を立って廻り込み、貫多のスーツの襟を摑んで引き寄せ、押っぺし、何やら恐ろしい程の力でもって彼を椅子から横転させた。
 然るのち、この電光石火の攻撃に何が起きたかの理解がまだできていない貫多の上半身に、膝を──上肢を押さえ込むようにして膝を乗せた新川は、そこに体重をかけつつ、一方で未だ放さぬスーツの襟首をそのまま両手を使ってグイグイと絞めつけながら、
「このやろう! このやろう!」
 との絶叫を続け、果てはおそらくは右の拳であろうが、それを貫多のテンプル付近に一度ならず二度三度とふり降ろしてきた。

(文庫版523~524頁)

 最高である。

 初読時、この場面で感じた猛烈な興奮と快感はいまでも忘れない。「いいぞお、新川さん! やったれやったれ!!!」と大声で応援したくなるような場面ではないか。格闘技やスポーツとはレベルの異なるケチな暴力沙汰(こういう表現もなんだが)の経験がないとなかなか書けないような、具体的な動きの描写もまたじつにすばらしい。
 さらにこのとき、私は、貫多からこれまでさんざん恩を仇で返すような真似をされ、年長者だというのに敬意も払われず、いいようにやられてきた新川の姿に、実生活でさまざまな理不尽への怒りをつねに燻らせている自分を、いつのまにか重ねていたことに気付かされもしたのだった。
 西村賢太作品といえば、暴力の炸裂がカタルシスをもたらす仕組みになっているものが多い。あるいは暴言。あるいは無様な失敗。それらは、北町貫多が他者に向かってぶつける場面がもっぱら思い浮かぶが、『雨滴は続く』ではその逆で、新川が貫多に、溜まりに溜まった怒りをバーストさせるのである。それはいま挙げた「暴力の炸裂」であると同時に、貫多の「無様な失敗」が重なる場面でもある。相乗するカタルシス効果。だからこその「猛烈な興奮と快感」だったのだと思う。

 そして、新川の猛攻撃に対して「身の危険を感じた」貫多が、ひたすら「痛い!」と「悲痛な泣き声での連呼」を始めるカッコ悪さにはとどめを刺される。「痛い!」って。いやあ、すごくリアルですごくカッコ悪い。これまた、ケチな暴力沙汰の経験がなければなかなか書けないようなダサい場面で、読んでいて多幸感に包まれてしまうのである。

“痛い!”をひたすら繰り返すことによって相手の気勢を削ぎ、かつ、こちらの被害を強調することで暴力中の興奮状態を落着かせて我に返らせようとの、姑息な深謀から発したその連呼である。これは小学生の頃の貫多が同級生と喧嘩をし、案に反して手こずり、形成不利になり、そしていよいよ敗色濃厚の段に至ると、それ以上のダメージを回避する為によく使っていたところの良手でもある。

(文庫版524頁)

 ……カッコ悪いことをもっともらしく書いてんじゃないよ。なにが「良手でもある」だよ。と突っ込まずにいられない。興奮と爽快感のあとに、絶妙なセンスのユーモアが繰り出される。この流れだけでも、ほんとうに、圧倒的である。

 それにしても西村賢太の私小説は「リアル」と「カッコ悪さ」と「ダサさ」を描いて唯一無二の存在感を放っていると思う。
 前回の感想文で、西村賢太のエッセイや発言を引用して、私小説の「資質」について触れたが、私小説の難しさは、多くの人に「自分にも書ける」と思わせる(錯覚させる)がために、ミステリやサイエンスフィクションなどを執筆する難しさとはまた質の異なる、独特なところがあると思う。
 西村賢太みたいな私小説を書きたい。と思って、結局いまだに成功していない私が見るに、下手な私小説にありがちなのが「自分を美化、正当化している」話である。ひとつの「小説」として成立しているか否かよりも、読者に対するいやらしさ(自分の正しさを認めてほしい、自分を受け入れてほしい、私小説を書ける自分すごいと思ってほしい)ばかりが先行して、自己陶酔の押し売りになっている。
 そんなふうに読者に求めることは多いくせに、文体は妙にインテリぶった、上から目線なところがあったりもする。
 目も当てられない。
 私小説は読まれにくい。との話を読むか聞くかしたことがある。が、単なる自己陶酔小説が多くの読者に熱く支持されて大当たりし、作者が功成り名を遂げるなんてことは、まったくないとはいえないが、きわめて稀なのではないだろうか。自己陶酔でしかない小説は、作者以外のほとんどの人間にとってはおもしろくも可笑しくもない「自分語り」に過ぎず、むろん新たな知見をもたらしてくれるようなものでもないからだ。評価する立場である読者は、みな決して暇ではないし愚かでもないのだし。と思う。もっとも、何度もいうように、私は文学に詳しくないうえにいろいろよくわかっていないのだが(だから私小説も書けない)。
 下手な私小説ににじみ出まくっている作者自身の自己陶酔ぶりの滑稽さを嗤う。という楽しみ方もあるかもしれないが、それは小説そのものの内容とは関係がないし、綺麗事をいえば、気分のいいものでもない(もし自分の書いたものがそんなふうに読まれたら泣いてしまう)。
 しかし一方で、ふだん実生活でもうっすら感じる「自分語り」を嫌う、蔑む風潮をそのまま読書にも持ち込むことは、「自分語り」から生まれる物語としての私小説への多様な評価を阻むことになるのではないか。とも、私は思っている。

 西村賢太は、北町貫多を決して美化しない。『雨滴は続く』でも、他の作品でも、つねにツッコミどころ満載のどうしようもない男として書いている。
 暴力的で、だらしなくて、酒癖も悪くて、女に弱くて、がために顰蹙を買ったり、ロクでもない目に遭ったり、自分で自分の首を絞める羽目になったりするのだがまるで懲りない。どうしようもない。そんな貫多を、西村賢太は、じつに、淡々と描く。
 ほかの登場人物よりも貫多がすぐれているとか、貫多が正しいとか、そういうふうには書かないし、作中に保身の態度をにじませてしまうこともない。すくなくとも私はそう思う。
 貫多はいつも、作者である西村賢太にさえ、突き放されているのだ。そういう書き方は、私小説の資質を持たない書き手にとっては、非常に度胸というか、勇気がいる。よく「自分に自信を持て」などといわれるが、自分のことを書いた自作の小説を通じて他者(読者)にすごいと思われたい、認めてもらいたい、それで自分は自信が持てるなどという甘ったれ根性の持ち主には、とうてい無理な書き方ではないか。他人に寄りかかって自分を見いだそうとしかできない者に、どうして自分自身を突き放すことができるだろう。
 西村賢太が突き放しているからこそ、読者は心置きなく、北町貫多に肩入れしたりその無茶苦茶な言動を笑ったりできる。
 「自分を肯定しろ」という作者の姿勢が前面に出た私小説からは、読者の読む態度を支配しようとするような嫌な圧も備わっている。西村賢太の私小説には、そういうものがない。大正から昭和のすぐれた私小説と、話芸とのハイブリッド感あふれる文章で、読者の忖度など関係なしに夢中で読ませてくれる。つねに、きわめてハイクオリティなサービス精神と技術と、自らを突き放す胆力とが、同時に発揮されている。
 それが、西村賢太の私小説だ。

 ところで西村賢太の「秋恵もの」といわれる作品には、貫多がいて、それに相対する存在として、同棲相手の女性「秋恵」がいる。秋恵の存在には社会性の象徴みたいなところがあり、持ち前の狷介さで暴走する貫多にストップをかけようとする。それが貫多の怒りに火をつけクライマックスへつながる、というのがひとつのパターンとして見受けられる。
 『雨滴は続く』では、秋恵は登場しないが、新川が秋恵的な役割を担っているのだな。と読みながら感じた。貫多に対して、即座に暴力で立ち向かうところなどには、秋恵ものとはまた異なる良さがあって、これもまた先ほど述べた「猛烈な興奮と快感」につながっているのだろう。

 寄り道しながら、思った以上に長い感想文になってしまった。

 西村賢太の死により、『雨滴は続く』は未完の作品となった。しかし未完の、遺作のタイトルに「続く」との言葉が入っていることには──ほかの読者のみなさんもそうだと思うが──じつに不思議で、感慨深い気持ちになる。
 ずっと読んでいたかった。『雨滴は続く』の「完結」を見たかったし、『雨滴は続く』に書かれた時代以降の貫多をもっと知りたかったし、『悪夢──或いは「閉鎖されたレストランの話」』(『人もいない春』所収)以来の「異色作」である『崩折れるにはまだ早い』(『瓦礫の死角』所収)のような作品も読みたかった。私小説の資質を持たないうえに、買ってない単行本や文庫本が何冊もあるダメ読者のくせして、そんなことを、私は思ってしまうのである。

 しかし嘆くことはない。

 西村賢太の作品はここにあるし、北町貫多も、ここにいるのだから。

(了)

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