『神皇正統記』を題材に「神国」を考えてみた/大学レポートより
14世紀半ばに北畠親房が著した文書『神皇正統記』を題材に、この中で述べられている「神国」の意味について考察する。
加藤(2011)は、北畠親房について「村上源氏の流れをくむ北畠氏の出身であり、和漢の学をもって天皇に仕えた貴族の家系」だとし、「後醍醐天皇の皇子の養育係」であると同時に「南朝の重臣」だったと述べる。当時は「天皇の親政が行われなくなって久しく、南朝の血統をひく天皇の権威」が「危ぶまれ」ており、親房は「後醍醐天皇の皇子のために」この『神皇正統記』を執筆したという。
特によく知られているのが冒頭の「大日本は神国なり」という一文である。この文言のために「神国」とは「日本は神の加護があるから外敵をよせつけることなく無敵」「日本だけが他国よりも優越している」という意味に捉えられることもある。しかし、加藤の読解では「神国」には違う意味があると述べている。
親房が『神皇正統記』を著した目的は、南朝の天皇の正統性を説くことである。そのためにまず取り上げたのが血統による正統性である。親房はこの国の起源を「天祖、すなわちクニトコタチノミコトが方向付け、日神すなわち天照大神の命令によって天孫である天皇が統治する」という形で始まったとする。加藤は、この設定から「神国」という言葉には「『神の後裔である天皇の治める国』という意味がある」とした。
さらに加藤は『神皇正統記』が「神の国であるからこそ、神道に違うことをしては、一日も「かみ」の加護を受けられない」と主張すると説く。同時に「日本では『かみ』を『まつる』ことを根底においた政策こそが正しく、成功するのであり、『かみ』をないがしろにした国策では、それがいかに合理的でも成功しないという主張」と言い換えている。
入江(1939)も、加藤が引用した『神皇正統記』の「この国は神国なれば、神道に違いては一日も日月を戴くまじきいはれなり」の部分を用いて、「『君に仕へ神に仕へ國を治め人を教』ふる道として、卽ち道徳宗教政治教育の本義として(中略)『誠の正道』が説かれて居る」と述べる。入江は『神皇正統記』について、さらに「常に『皇子の教育』を念頭に於て書かれて居る」教育書だと捉え、「帝王の學(教育)を説いた教育書たる」と断言している。つまり、一般の人々ではなく皇室に向けて書かれたものと考えているといえる。
津田(1919)は、帝王学としての道理を説く『神皇正統記』の性格に触れつつ、当時の武士社会の根本を成している領土問題と皇室が直接関係ないため、武士間では「神國といふような概念がさしたる勢力を有つてゐな」かったと指摘した。
しかし、「神国」という言葉に対して比較的冷静だった戦前の言説に比べると、太平洋戦争下にあった1940年代前半の解釈は別の方向へ導かれていく。小学生を対象とした文献では平易な言葉を使いながら自国を優越視する「神国」の説明がなされている。
1943年に刊行された高須芳次郎ほか『少国民の国体読本』においては、親房が『神皇正統記』を執筆した動機は「日本の正しいすがたを書物に書きあらはして、のちの世まで残しておかうと」思ったからだとする。さらに「やがては、皇室のたつとさを知らない人々が多くなるにちがひない。その人々に正しい皇室の御姿と、日本の國體の尊さを知らせるものがなかつたならば、このおさまりはどうなるか分からない」と親房の心情を推察し「日本の本當のすがたを明らかにした親房の心は、どんなにけだかいものでしたらう。」と締めている。
南朝の正統性や過去の「かみ」とのつながりなど政治的な問題には触れず、神道における「まつり」や「礼」など行いの正しさについても説いていない。「神とつながる皇室の尊さ」と「国体の本当の姿」を明らかにしたとして親房を讃えて終わっている。
高須(1942)は別著でも『神皇正統記』が「巻頭まづ、大日本が神國であることを宣誓して、國民の自覺を促し、愛國の心情を喚びさまし」て「國體の由来」を論じているとする。「國體なるものは、異國と區別して、自國を立てるところの意識から選ばれる」と述べており、加藤が反対している「他国との優越性の誇示」がここでは採用されている。
国立国会図書館オンラインにおいて「神国 国体」という語句で検索を行うと、1936〜40年で87件、1941〜45年で73件の書籍・文書がヒットする。前後の時代を確かめると1931〜35年で45件、1946〜50年で2件と激減している。紙の配給や出版事情の悪化が想定されるにもかかわらず戦時下に突出して多い。それだけ「神国」「国体」という語句の組み合わせの親和性が高かった時期といえ、「神国」の文言に特徴づけられる『神皇正統記』も誤解されたままだったと考えられる。
加藤は、「『かみ』の道と違っては『かみ』に守護されない」という「神国」についての考え方について、『神皇正統記』以前からも存在すると指摘する。『日本書紀』では第14代仲哀天皇が「かみ」の託宣のとおりに「かみ」をまつらなかったため、亡くなったとされる。また『書紀』の欽明天皇の記事では国の盛衰と「かみまつり」の有無が対応関係にあると述べられているという。『神皇正統記』もその流れをふまえている。
しかし戦時下のようなその時々の偏向によって文献の読み取り方は変わり、『神皇正統記』における「神国」の扱いもその例から外れることができなかったといえるだろう。
<参考文献>
加藤みち子『「かみ」は出会って発展する』北樹出版 2011
入沢宗寿『日本教育の本義』大日本図書 1939
津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』洛陽社 1919
高須芳次郎ほか『少国民の国体読本』フタバ書院成光館 1943
高須芳次郎『愛国詩文二千六百年』非凡閣 1942
国立国会図書館「『神国 国体』の検索結果一覧|国立国会図書館オンライン」2022年12月4日閲覧 https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/search?lang=ja_JP&keyword=神国 国体&searchCode=SIMPLE
レポートを書くまでの裏話
自分にとっては「国立国会図書館デジタルコレクション」を使った画期的なレポートです…! ここのデータに救われました。
ただし、資料を見つけて書き終えるまで紆余曲折がありました。
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