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「人間になる」とは

2024年3月17日に楳図かずお大美術展に行きました。
その中で疑問に感じて考えたものを言語化して述べていきます。

今から述べることは「楳図かずおさんはこんなことまで考えて絵を描いているのではないか」という私の妄想であることを前提に読んでいただけると幸いです。

私は今回の美術展で三枚の絵に注目しました。

①二人のロボットがそれぞれ人間の男の子の皮、人間の女の子の皮を被っている。
その二人が天上人に「人間になりたい」と願う一枚の絵。

②人間の男の皮と人間の女の皮を被った二人が「人間になる」と祈り、処刑ロボットが二人を避けていく一枚の絵。
※処刑ロボット…ロボットはロボットの顔をしなければならないので、人間の顔をしてなりすましているロボットを殺すロボット。

③人間の皮を捨て去った後、家に帰り二人で「シンゴ」について調べ物をする一枚の絵。

この三枚の絵を通じて私は
「人間になる」とは
どういうことか考えました。

①より「人間になりたい」というセリフを見て私は心を持つことや恋をすること、愛を持つことが「人間になる」ことの第一歩ではないかと真っ先に思いつきました。
しかし心や恋、愛といった曖昧な物、事象では「人間になる」ことを説明するには足りません。
先に曖昧な結論を述べると
「人間になる」とは
規則性による奇妙な連帯感が体に馴染むことだと私は考えました。
我々人間が住む地球は規則性を持って動いています。
例を挙げると星の瞬くリズム、天気の周期変化、太陽と月の距離、人間の体内時計など規則性を持って動いている物や事象が多数あります。
上記に示した例を人間は認識もすることなく平然と過ごしています。規則性を認識、ましてや理解することもなく生きています。
そこで私は二つの仮説を立てました。
我々人間が営む生活や心情変化も規則性に沿って行われているのではないか。
さらに言うと人間の「DNA」は規則性を示す物であり、規則性を他人と共有する情報が入っているのではないか。
この二つの仮説から考えると、規則性を認識、理解することなく生活することができます。
規則性に沿って行動する、いわゆる一種の思考放棄に至ることが「人間になる」ことだと私は考えました。

その裏付けとして②より「人間になりたい」と祈る絵があります。
祈りとは他者への想いを願うこと、神と神格化された者に対して何かの実現を願うことであります。
このことから察するに、祈るという行為は一種の思考放棄だと私は認識しています。
思考放棄することで処刑ロボットに「人間」であると認識されて人間の皮を被った二人のロボットを避けたのではないかと私は考えました。

思考放棄の状態が「人間になる」ことの第一歩である理由は③より説明できます。
2人のロボットは人間の皮を捨てロボットに戻り思考状態に入ります。
思考状態に陥れば陥るほど「人間」でなくなる瞬間が訪れると私は考えました。

我々人間は考えるべきものから目を逸らすことが非常に上手です。
特に私を含む現代を生きる人間に顕著に現れています。
それは自分が「人間」でなくなることを潜在的に恐れるため、思考放棄の状態に入り「人間」の形を取り繕っているのです。
私はそう考えます。

人間が真に「人間」になるのは、いつなのだろうか

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