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抑圧してきた自分の感情にアクセスする「エモーショナルリテラシー」というスキル

先日、プリズン・サークルという映画を見た。

対話をベースに受刑者の方同士が自身の犯した罪に向き合う「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」プログラム。島根にある刑務所「島根あさひ社会復帰促進センター」で行われているそのプログラムに、2年間にわたって密着したドキュメンタリーだ。

なぜ自分は今ここにいるのか、いかにして償うのか? 彼らが向き合うのは、犯した罪だけではない。幼い頃に経験した貧困、いじめ、虐待、差別などの記憶。痛み、悲しみ、恥辱や怒りといった感情。そして、それらを表現する言葉を獲得していく。(公式HPより)

この公式HPにかかれている通り、ドキュメンタリーでは受刑者の方々がTC(回復共同体)プログラムを通して、自分の生い立ちや過去の経験、そこで生まれた感情に向き合っていく様子が描かれていた。その様子を見ていると、自分の奥底にある感情にアクセスすることが、人生を生きるうえでいかに大切かがひしひしと伝わってきた。

「エモーショナルリテラシー」感情を健全な方法で特定し、理解し表現する能力


プリズンサークルを見て、もう少し回復共同体について知りたくなり、監督の坂上香さんが執筆に関わられていた「アミティ『脱暴力』への挑戦」を読みはじめた。

アミティとは、回復共同体をベースに、罪をおかした人や薬物依存の人々の回復や社会復帰をサポートするアメリカの団体である。特徴はそのプロセスにおいて「罰する」のではなく「感情に働きかける」ことを主眼においている点だ。

そして、その中核にあるのが「エモーショナルリテラシー」という概念だという。

エモーショナルリテラシーとは「感情を、健全な方法で特定し、理解し表現する能力」と定義されている。また、ゴールドマンはエモーショナル・リテラシーを「心の知性」と表し、私たちが抱いている感情の激しさと、その理由を理解し、同時に他者の感情をも前向きに認めることであるとしている。(中略)つまり、自己のあらゆる感情を知的に表現するだけでなく、他者のそれを尊重することをも含む。(p.16)
欧米では一般に、エモーショナル・リテラシーという言葉は、エモーショナル・インテリジェンスと同義語で使われており、次のような定義がなされている。「感情を正確に受け止め、評価し、そして表現する能力」「ある感情にアクセスしたり生み出したりする能力」「感情や感情的知識を理解する能力」「感情的及び知的発展を促すために、感情をコントロールする力」。(p.130)

アミティでは、ネガティブな感情をないものとして抑圧してきた結果、暴力や犯罪行為となって表出すると考えている。そのためこの「エモーショナル・リテラシー」が回復にあたって必要なのだという。

これを読んだとき、エモーショナルリテラシーは回復共同体という取り組みのなかだけでなく、多くの人に必要とされているスキルではないかと感じた。

先日、「自分のダークサイドをどこに吐き出せば良いんだろう」という話を友人とした。ダークサイドというのは、誰かに対するイラつき、憎しみ、妬み、自分を傷つけたいと思う気持ち、あまり人には言えない過去など、一般的に社会のなかで「よくない」と評価されがちな感情だ。

「ネガティブな感情はあまり人に言わないほうがいい」「感情をコントロールできるのが大人だ」そんな規範が強い社会だからこそ、そうした感情は人には言いづらいという人は多いのではないだろうか。

しかし、この本でも説明されている通り、ネガティブな感情が抑圧され続けた結果、他者への暴力や自分を傷つけるという形で放出されることもある。だとしたら、自分のネガティブな感情に、自分でアクセスできる・それを自分にあった形で他者と共有できるスキルや環境は、誰にとっても必要なのではないかと感じる。

では「エモーショナル・リテラシー」とはどう身につくのか

実際にアミティにおいて、エモーショナルリテラシーはどのように獲得されていくものなのか。この本のなかでは、その具体的な実践についても書かれていた。

安全な場所づくり

まず、最も大切なのは自発的に自らの体験や気持ちを語れる「安全な場所」を確保することだと言う。

自らの被害体験を語ること自体、容易なことではない。(中略)被害者にとっては、まず何よりもその事実を認めたくない、ということがある。(中略)また、被害を認識したとしても、そのことや気持ちを語ること自体が恥ずかしく、つらい、自分でも認めたくないような被害体験を打ち明けるためには、周囲が真剣に耳を傾け、受け止めてくれている、という信頼感をもてるかどうかにかかっている。(p.134)

この安心感を醸成するには「規制や強制」という概念からは離れ、自分から感情を話したいと感じるような環境を用意することが大切だという。

役割や立場を固定させない

また、アミティでは役割や立場を固定させないことも重要視されている。支援者/非支援者、女性/男性、加害者/被害者、など特定の役割や立場だけを担うことがないよう、意図的に場やワークショップが設計されているのだ。

本のなかでは、これは「犯罪を犯した人が自分の被害者性にも気づくこと、またそこから自分の加害性について再認識できるようになる」といった効果がある説明されていた。

人は、一定期間ずっと同じ「役割」を演じ続けていると、その枠組のなかでしか物事を考えられず、感受性も固まっていく。だからこそ、自分や他者、世界を違う角度から見るためにも、そこから定期的にはずれてみる必要があるということなのかもしれない。

ワークショップ(サイコドラマ)

アミティにおいて「エモーショナルリテラシー」を身につける方法は様々だ。エンカウンターグループ、セミナー、サイコドラマ、ビデオ、アートセラピー、ワークブックを使ったエクササイズ、読書、ゲーム、ダンス、詩の創作や朗読、歌、セレモニーなど、多種多様なアプローチがあるという。

本のなかでもいくつかのアプローチが紹介されていたが、印象に残ったワークをひとつ紹介したい。それがサイコドラマと呼ばれるものだ。

サイコドラマは集団心理療法の一つで、即興的なドラマを通して自分を理解し、洞察をもたらすことを目的とした心理療法だという。アミティでは、大きくわけて5つの種類を行っているそうだ。

①古典的サイコドラマ:一人の主役を中心にして、問題に直面させ、その問題をどのように解決できるのかを発見していくことを目的とする
②オムニバスサイコドラマ:複数の役割を演じてリラックスすることを目的にしている
③ソシオドラマ:社会問題を扱ったもの
④ロールプレイング:限定した状況で役割を演じ合う
⑤プレイバックシアター:訓練を受けたスタッフや参加者が、他人の物語を再現してみせる。(p.149)

坂上さんはこのサイコドラマの様子を見て「グループやセミナーのなかでは出てこなかった被害体験や加害体験のディテールや、それらの体験に伴う感情の細かいひだが浮かび上がったり、グループなどですでに表出していた断片的な出来事が、次々につながって統合され、一つの物語を見事になしていくプロセスを目の当たりにして驚いた(p.150)」と記している。

本のなかでは具体的な一事例が載せられており、それがとても印象的だった。ここでは引用しきれないので、興味がある方はぜひ本を読んでみてほしい。

(※サイコドラマは人の心を大きく動かす一方で、失敗や参加者を傷つける危険性も高い。アミティでもトレーニングと経験を積んだベテランのスタッフが監督をつとめている)

エクササイズ(ソーシャルアトム)

最後に、プリズン・サークルのなかでも実践が放映されていた「ソーシャルアトム」というエクササイズについて触れておきたい。

ソーシャルアトムとは、人間関係のつながりを丸と線を使った図で可視化するエクササイズだ。精神的に親しい場所にいると感じる人物は自分の近くに、反対に精神的な距離が遠いと感じる人は遠く配置する。さらに、そのつながりの濃さを、線の太さでも可視化していく。

こうすることで自分を取り巻く過去や現在の人間関係を認識し、より深く理解するだけでなく、病んだ人間関係から理想的な人間関係をつくっていくための機会になるという。

感情を理解することは、自分の人生に意味を見つけることでもある

「感情のひだを理解することができないと、人生のなかで起きた様々な出来事について、どう解釈すればいいかわからない(p.131)」

これは、本のなかに登場したアミティの代表アービターさんの言葉だ。

自分の感情を知り、そこにアクセスできることは、自分の人生を解釈し、自らで舵をとっていくためにとても必要なことなのではないだろうか。

まだまだ日本ではTCを取り入れている刑務所は少ないという。こうした取り組みが広がっていったらいいなと思うと同時に、日常生活において多くの人がこうしたエモーショナルリテラシーを獲得をしていけるような場所や機会をつくっていきたいと感じた。

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