他者の見ている世界は、完全には理解できないけれど〜「記憶する体」を読んで〜
先週、おばあちゃんが死んでしまってね…。なんか心にぽっかり穴が空いてしまったような気持ちなんだ。
長年付き合っていたパートナーとお別れしたの。なにもする気がおきなくて、動けなくて。最近はずっと家にいるんだよね。
友人からふとした瞬間に、辛い気持ちを共有されることがある。
こんなとき、私のなかには二つの気持ちが生まれる。
できる限りこの人の感じている世界を理解して寄り添いたいという気持ち。そしてもう一つは、他者である以上その人の感じている世界を完全に理解して寄り添うことはできないのだという、諦めの気持ちだ。
他者が感じている世界を完全には理解できない。
これは違う人間である以上、当たり前のことだ。
とはいえ、人の感情が目の前でこんなにも揺れ動いているのに、その人が感じている世界を汲み取り、理解しきれたと思えない。その事実に、どうしようもなくもどかしさを感じることがある。
記憶する体
「他者が感じている世界を完全には理解できない」
そう諦めるのは早いのではないか。最近、そう思える出来事があった。
身体の研究者である伊藤亜紗さんの「記憶する体」を読んだのだ。
この本のなかで伊藤さんは、視覚障害、四肢切断、麻痺、吃音といった社会的に「障害」と呼ばれる特徴をもつ方々12名にインタビューをしている。そして、それぞれに固有の「体の記憶」を丁寧に記述している。
例えば、ある全盲の女性。彼女は目が見えないけれど、話をしながらメモをとる習慣があるのだという。見えなくなってから10年の時が経っても「見えていたときの記憶」を体が持ち続けている。いわば「見えない体」と「見える体」が一人の女性のなかに共存している。そんな固有の体の記憶が、伊藤さんとインタビュイーの対話を通して浮き彫りにされている。
また、下半身に感覚がなく、動かすことが難しいというある男性。彼の障害は先天性であるため「脚に感覚がある状態」を経験したことはない。しかし、脚から血が出ているのを見た時、感覚がないはずの脚に痛みを感じることがあるのだという。「感覚のある上半身の体の記憶が、下半身に染み出している」。そんな体の記憶のリアリティが記録されている。
このように、12名の方々それぞれの「体の記憶」が、インタビューを通して描き出されているのが、この「記憶する体」という本なのだ。
他の人の記憶や感覚に「潜っていく」
この本を読んで、もっとも驚きを感じたのは、伊藤さんとインタビュイーがその人固有であるはずの経験を、言葉という「共有可能なもの」に変換していくプロセスだ。
他者が感じている世界は、ほかの他者には理解できない。
そう考えていた私にとって、このプロセスは衝撃だった。
例えば前述した、下半身に感覚がないという男性が伊藤さんにこう伝える。
「脚に意識を置いておくのは、純粋に怪我のためです。怪我しないのであれば意識する必要はないんですけど、感覚がないから、怪我をしないように意識を置いておくんですよね」
すると、この言葉を受け取った伊藤さんは、こう続けるのだ。
「脚を意識しておく」ではなく「脚に意識を置いておく」という言い方なのが面白いところです。脚の存在を自分の内側から感じることができれば、それは「脚を意識しておく」ということになるでしょう。ところがかんばらさんは、脚を実感として感じることができない。だから「脚に意識を置いておく」という外側から注意を払うような言い方になります。(中略)そう、かんばらさんの身体の特徴は、脚の状態を内側からではなく、外側から感じるところにあります。
インタビュイーは、自分が日々感じている微細な感覚のニュアンスを「脚に意識を置いておく」という言葉に込める。すると伊藤さんが、その細かいニュアンスを逃さずに受け取り、そこからさらに深く相手の「体の記憶」に入り込んでいく。
二人のこの言葉に対する繊細さと、「もしかすると相手が感じている世界はこうではないか」と発想する想像力。その両方に驚かされた。
ほかにも感動した点がある。それは、既存の「概念」を安易に使って、経験を咀嚼しようとしない点だ。
何人かのインタビュイーの方のお話を見ていると「幻肢」というフレーズがでてくる。これは事故や病気が原因で手や足を失った方が、存在しないはずの手や足の存在を感じることを示す概念だそうだ。
例えば「物理的には脚がないけれど、あるように感じる」という経験をしたとき。「幻視」という概念を知っていたら相手に「幻肢です」と伝えたらそこで対話は終わってしまう。それを受け取った相手が、その言葉をそのまま受け取れば、固有性がないまま、その体の記憶は「幻肢」という二文字で解釈されてしまうだろう。
しかし、伊藤さんとインタビュイーの対話はそこで終わらない。”わたし”の幻肢は形はどのようなもので、体温はどれくらいなのか。”あなた”の幻肢は触るとどう感じるのか。そして、生活や人生にとってどのような意味をもつものなのか。それをとことん話し続ける。
便利な概念だけに頼って伝えようとしたり、理解しようとしたりしない。その固有性を伝え合うやりとりを見て、双方の覚悟のようなものを感じた。
理解はできない。でも共有しようとすることを諦めない
目が見えなかったり、足や手がなかったりといった場合、そうではない人と感じる世界が物理的に異なることは多くあるだろう。
しかし、この本ではその差異を「違う」という一言で諦めようとはしない。完璧には理解しきれないであろう”わたし”と”あなた”の「違い」について、「それはどう違うのか」をぎりぎりまで言語化し、片鱗をつかみ、なんとか共有しようとする。そんな迫力を感じた。
もちろん、そんなふうにぎりぎりのライン上で言葉を駆使して伝えようとし、理解しようとしても「他者が感じている世界を完全には理解できない」という事実は変わらないだろう。
”わたし”と”あなた”は別の人間だからだ。
でも、この本に教えてもらったのは「確かに完全に理解はできない。しかし言葉を通じて、相手の世界に近づき、より深く知ろうとすることはできる」ということだった。
相手の口からでてきた言葉のほんの少しの違和感にも注意をはらうこと。ちょっとした言葉の機微から、相手の見ている世界を知ろうと想像力をはたらかせること。安易に便利な言葉で伝えたり、理解しようとしたりしないこと。
そんなにも努力して、決して理解できないものを理解しようとするプロセスはたしかにもどかしいかもしれない。でも、そのもどかしさをしっかりと引き受けられる人でありたいなと感じた。
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