隔靴掻痒の被災地
今回の震災の被災地支援で拠点に選んだのは、高級温泉旅館の加賀屋で有名な和倉温泉である。
この温泉街は1月1日午後の被災時にはどの旅館もほぼ室だったようだ。ようやくコロナ禍から解放されて上り調子のはずの高級温泉街である。年末年始休暇を過ごしていた人たちが多かったことは容易に想像できる。高級温泉に滞在するのを年末年始の恒例にしている客も多かったにちがいない。外国人旅行者も復活傾向で、台湾など海外からの客もいたのではないか。
ほぼ満室だと仮定すると、和倉温泉だけでその数はおよそ数千人に達する。20軒前後の温泉旅館(ほかに温泉のない旅館も多数)があるそうで、高級温泉街として有名なだけに中大型旅館が多い。ぱっと見ても立派な建物が多いのだ。平均50室あるとしたらそれだけで20軒で1000室。そこに2人が宿泊していればそれだけで2000人以上の客が和倉温泉に宿泊していたことになる。実際はもっと多かっただろう。
そこで謎がある。そのたくさんの客がいきなり正月に大きな揺れに見舞われ、おそらくは大勢が寒空に放り出された。ひょっとすると大混乱だったはずなのに、その和倉温泉街の様子がYouTubeやSNSなどでもまったくといっていいほど見つからないのである。
原因を考えてみた。ひとつめは「宿泊者が全員が投稿を自粛している」。これはまずない。もうひとつは旅館側がお願いをして宿泊者に混乱した状況を投稿しないようにお願いした。さすがに数千人がこれにしたがうのは無理がある。もうひとつは投稿を「SNS側が表示しないように規制している」。これがいちばん可能性としては高い。最近のSNSは「残酷なシーンが含まれる可能性があります」などと動画の再生前に警告表示をするようになっている。
AIが介入し、その結果、穏便な動画しかわれわれは見ていない可能性がある。
陰謀論者が好みそうな話だが、いちばんその可能性が高い気がする。社会的混乱や視聴者の精神的ダメージ、地元の風評被害による経済的損害を呼ぶような内容になるなら、そういう刺激の強い動画はとりあえず表示しない。そういうことである。
テレビをいくら長時間見ていても、この国民総メディア化時代にやたらと同じ動画ばかり放送するのはあまりにもヘンだ。そういう力学が働いていてもおかしくはないということだ。
とまれ、ここまでの話である。事実の検証までする気はない。インターネットが自由だった時代は終焉を迎えたのである。
能登半島の現場に来てみると、今回の災害はじつに報道と現場の感触がまったくことなっていて、しずしずとしているわりに実際の現場は放ったらかされ感がすごい。ボランティアは来るなと言われる一方で、行くと重宝がられるし足りているとはとうてい思えない。大きな災害が起きたのに、現場をあちこち走っても壊れた家屋以外の風景は整然としていて、忙しそうにしている人というのがそれほどいない。
この国民は、大災害すらシステマチックに対応することができるようになってしまったのかと思いたくなる。しかし、現場で取材をすると消防も自衛隊もそれほど効率的に問題なく動けているわけではない。自分の持ち場の仕事をやるだけのマシーンみたいな動き方になっていて融通というのが効かない。どちらかというと改善することや問題は山ほどある。自衛隊・消防・警察の連携も組織の上層部ではずいぶん昔とちがって改善はされたのだろう。しかし現場に熱がないのが気になる。
大災害が起きたのに、なにかこう「がんばっていこうや」という熱を帯びた感じがない。はたしてこんなことでいいのであろうか。
大災害をいくつも経験して組織的な改善がおこなわれたのはいいのだが、大災害はそれだけで解決するようなものではない。役人だけにやらせるにはあまりに荷が重いとおれは考えている。おれは仕事上で役人(腹立つやつも含む)との付き合いもあるので、災害の対処を自衛隊や消防、そして公務員だけで十全に対応できるはずなどないと断言できる。
ところが、民間とボランティアがあまり活発に活動しているように見えないのである。復旧と復興は役所にまかせておけとでもいわんばかりで、「いまは現地に行くな」とかそういう話ばかりがこだましていて、関西の生活からは能登半島地震の情報はすくなくなり、抽象的な死者数のカウントだけが報じられる。
そんなことでいいのだろうか。ものすごく気持ちが悪いのがこの能登半島の被災地である。大陸に面して日本の海路の要衝をにない、長い歴史をつむいできた能登半島のたくさんの集落が消滅の危機にある。それにしてはなにもかもが寒々しく白々しい。