ひとりぼっちのクリスとドーナツ
ドーナツ1箱をクリスに届けて欲しいという依頼が来たのはランチにはまだ少し早いのんびりとした時間帯でした。
日本でも大変人気なこのドーナツ屋は、もちろん私の街でも大人気です。ドーナツの妖精のような店員さんから1箱受け取ると、車に乗り込みました。
クリスの住まいはハイウェイの向こう側にある少し治安の悪い場所にありました。彼の住む街に着く頃には、辺りは説明し難い暗い雰囲気に包まれ、時間は既にランチタイムど真ん中。アプリからは出前の依頼がひっきりなしに届き始め、止めても止めても通知が鳴り止みません。
神経を擦り減らしながら運転しつつ通知をさばく私に、何故かクリスも笑顔の絵文字を送りつけてくる始末。意味不明です。
うろうろと目的地を探す挙動不審な私を監視し続けていたクリスは、次に、スペイン語で何かをぽこぽこと投げつけてきました。スペイン語は全く読めませんが私へのクレームに違いありません。悪口は言語の壁を軽々と越えるようです。
クリスの部屋は同じ黄色い建物がいくつも並ぶ低層アパートメント群の内のどれかでした。部屋番号は事前に通知されていましたがそんな数字は見当たらず、彼の置き配の希望は叶えられそうにありません。
観念してクリスに電話をかけることにしました。
「どの建物ですか?」
クリスは答えます。
「黄色のやつ」
目の前の建物は全て黄色ですし、電話に出たその声は子供のものでした。
どうしたものかと顔を上げた時、ある部屋のカーテンの隙間からメガネをかけた男の子が見えました。彼のお腹で膨らんだパジャマには不敵な笑みを浮かべたグリンチが描かれています。
クリスは部屋の扉を5センチだけ開けてこちらを覗いています。近くで見る彼は10歳を少し過ぎた程度に見えました。
「遅くなってごめんね」
5センチの隙間から伸びた手にドーナツの箱を託しました。
クリスの両親は仕事に行く前に、学校を病欠した彼に「誰か来ても決して扉を開けてはいけない」ときつく教えたかもしれません。それでも仕方なく迷子の私とドーナツのために少しだけ扉を開けてくれたのかもしれないという適当な妄想に勝手な心配とお節介を抱き、彼に何か話しかけたい気持ちになりましたが、グッとこらえて足早にその場を離れました。
クリスが黄色い建物の中で家族とドーナツを何個も頬張る姿を想像しながら帰路につきました。
所要時間:32分
配達料:$5.00
チップ:$0.00
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