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目標とは「右斜め前に見えた大きめのライフ」である


「行動」ではなく「心の状態」を見据える

昨年より、目標については「行動」ではなく「心の状態」を設定するようにしている。 なんらかの行動は「ある目的」を達成するための手段であり、「ある目的」とはすなわち「ある心の状態」だからである。 例えばあなたの目標が「読書したい!」だとしよう。それはなぜだろうか?
ここを掘り下げていくと「見聞を広げたい」 という欲求が見えてくるかもしれない。もしそうだとしたら、この欲求が満たされている時の”心の状態”を目標とした方が良い。 そのほうが、見聞を広げるための方法を複数試すことができる。読書はそのアクションプランのひとつに過ぎない。

目標とは「右斜め前に見えた大きめのライフ」である

ところで、目標とゴールは異なる。目標とは、ゴールへの到達度合いをはかる目印のようなものだ。 例えばあなたが友人を家に招いたとしよう。友人はあなたの家に来たことはない。故に、あなたは電話で道案内をする。

「ああ今でっかい通り?左手に山見える?オーケー、しばらくまっすぐ」「あ!右斜め前にライフ見えた?オーケー!そこ曲がったら着く!※」

この時、友人にとってのゴールは言うまでもなくあなたの家である。そして、説明で用いた”大きめのライフ”が目印、 すなわち目標ということになる。そして、ゴールが最も重要であるということは認識しておくべきだろう。目標はライフでも洋服の青山でも、現在地とゴールの途上に位置するものであればなんでも良い。
※もう引っ越したけど、新開地から三宮方面に向かって上記の通りに進むとガチで以前住んでいた家に着く

ライフの先には何があるのか

先ほどの話に戻すと、「見聞を広げたい!」はなんらかのゴールに近づくための目印である。ではそのゴールとはなんだろうか。 それはおそらく「快楽・喜び」である。一般化しすぎだろうか?しかし突き詰めればそうなるはずだ。わざわざ自分で行動指針を掲げて地獄に突っ込む奴がどこにいるのか。いや、いまい(反語)。

筋トレを頑張りたいのも、資格を取りたいのも、海外に行きたいのも、全部最終的には「快楽・喜び」を得るためにやっている。 あなたはきっと、見聞を広げたらドーパミンがドバドバ出るタイプの人なのだろう。

快楽と幸せを同一視するなかれ

さて、”快楽”を最終到達点とするのは個人の勝手なので止めはしない。しかし、もしも「幸福になりること」と「快楽を得ること」 を同一視しているなら注意が必要である。この2つは似ているようで大きく異なる。マチュー・リシャールが言っていたのでたぶん間違いない。たぶんね。

曰く、「快楽・喜びは時間・目的・場所に左右される」と。どんなにチョコレートケーキが好きでも、無限に食べ続けることは出来ない。 喜びとは経験と共に消費されるのである。 反面、「幸福」は時間が経っても消えない。外洋の深さのように、常にそこにあって動かない状態のことを指す。嫌なことがあっても 受け止め、怒りや嫉妬にとらわれず、感謝や承認も必要としない。常に充足している状態、それが幸福の指し示す境地である。

「ビバ!数値化」に潜む言語化の怠慢

さて、以上のことから目標には「最終到達点までの目印であること」「その道中に至る景色を限りなく鮮明に描写したものであること」の2つの性質が必要だといえる。

特に2点目が重要で、この時よくある間違い(いやたぶん間違いではないのだが個人的に受け入れたくない考え)に「目標は数値化すべき!」がある。正しくは「数値化できるものは数値化し、できないものは徹底的に言語化する」だろう。

例えば「慈悲心に満ちた状態」をゴールに設定したとする。そこに至るまでの道のりにおいて、目印になるのはなんだろうか。道に迷った人を助けた回数?恵まれない境遇にある人たちへの募金総額?
いや、確かにこれらは慈悲心のなせる所業であることは疑いがない。しかし、その目標のために「あえて誰かを道に迷わせる」「募金するために慈悲心のない方法で金を稼ぐ」といった横道に逸れることも十分想定できないだろうか?(いわゆるグッドハートの法則である。)

思うに、ここには”言語化の怠慢”が潜んでいる。確かに数値化すれば手軽に目標を客観視できるが、それは数値化でなくても実現可能ではないか。言葉を尽くし、厳密に描写することで客観性は担保できるはずだ。その方法が確立できたらまたnote書きます。終わり。

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