「ODE TO JOY(第9:歓喜の歌)」『RAISING ARIZONA(赤ちゃん泥棒)』徹底解剖16
コーエン兄弟は『WAY OUT THERE』の歌詞を元に映画『RAISING ARIZONA(赤ちゃん泥棒)』のストーリーを構築した…
せやけど、そこには「大事なこと」が欠けとったんや…
『WAY OUT THERE』は典型的な「孤独な放浪者」の歌…
淋しさを隠し、強がってみせる「痩せ我慢」の歌や…
肝心のハッピーエンド要素がゼロやった…
詳しくは前回をどうぞ。
その欠けていた「大事なこと」を補うのが、ベートーヴェンの交響曲第9番なんだよね。
だからコーエン兄弟はわざわざ映画のテーマ曲『WAY OUT THERE』に第九の「歓喜の歌」を挿入したわけだ。
「歓喜の歌」がないと、この物語は完成しないんだよ。
そんなに重要なのか!
重要なんてもんじゃないね…
物語の根幹部分は第九から作られているんだよ…
それまで完璧に隠されていた「第九のテーマ」が表層に現れるのは、赤ちゃん返却シーンにおいてだ…
ハイとエドは赤ちゃんをアリゾナ氏に返した際、自分たちに子供が出来ないことを告白した。
それを聞いたアリゾナ氏は二人を励ます。自分の子供を誘拐した犯人にもかかわらず、何があっても別れてはいけないないと諭すんだね。
実は彼にも長らく子供が出来ずに悩んでいた過去があり、若い二人の辛い気持ちが痛い程わかったというわけだ。
だけどハイはアリゾナ氏に感謝した上で、離婚を決意したことを伝える。
ちなみにその理由はジョークになっていたね…
ハイ「お言葉は有難いのですが、私たちはもうやっていけないと思います。妻が言うには、私たち二人は自分勝手で非現実的なんです。これ以上一緒にいることは、お互いのためによくありません…」
ハイとエドは「アダムとイヴ」だもんな!
神の言いつけを守れずに「知恵の実」を盗み食いするような自己中カップルだ(笑)
しかも人類史上最強の非現実的カップルやで。
ふつう男が「うちのツレが…」っちゅう時には「小指」を立てるもんやけど、アダムの場合「肋骨」立てなあかん(笑)
ハイとエドは、自分たちの愚かさが身に染みていた。
束の間の「家族」の時間を過ごし、ハイとエドとネイサン・ジュニアの三人は別々の道を歩むことになるかに思えた…
まさに『WAY OUT THERE』のようにね…
だけどここから「第九のテーマ」が姿を現すんだ…
アリゾナ氏「Ma'am…、詳しい事情は知らないが、私は人間というものについてなら知っている。君たちは私に子供を返してくれた。なにもそこまで自己否定しなくてもいい。君たちには良いところもあるじゃないか…」
ハイ&エド「・・・・・」
部屋から出て行こうとしたアリゾナ氏が立ち止まって、重苦しい表情で振り返る
アリゾナ氏「私なら…フローレンスが居なくなるなんてことを考えたくもない…。心から愛しているんだ、彼女を…」
ハイ&エド「・・・・・」
ええシーンやけど、なんか変やったな。
急に重々しいトーンになって…
しかもそれまでアリゾナ氏は奥さんのこと大切にしてる素振りすら見せてなかったのに!
最初の登場シーンでも超エラそうな亭主関白野郎だったよ!
「800台のイス無しダイニングセット」を仕入れてしまった部下に「そんなものが売れないことは《バカでもわかる》」って言うところを「うちの嫁でもわかる」って言ってたよね!?
そして2階が騒がしくなってきた時に、自分は動くのが面倒だから、奥さんだけに様子を見に行かせた!
そんな男が、よく言うよ!
その通り。
それまでネイサン・アリゾナ氏は、奥さんのフローレンスに対する愛情なんて全く見せていなかった。
でも、そこがポイントだったんだ。
この場面で急に「重苦しく転調」することが狙いだったんだよ…
しかも「フローレンス」の名を出して、ハイとエドの苦渋の選択を「否定」することが…
ハァ?
まだ気付かないかな?
これが「第九のテーマ」が現れる合図、ファンファーレなんだよ。
ハイとエドの離婚という苦渋の選択をアリゾナ氏は「そうじゃない」と否定した…
「二人が一つであること」が何よりも大切だと力説したよね…
そして妻フローレンスの名前を出す…
ハイとエドとアリゾナ氏の一連のやり取りが、ベートーヴェン交響曲9番『合唱付き』第四楽章で『歓喜の歌』が始まる部分「重苦しいファンファーレ」の再現になってるんだ。
動画の出だしから40秒までを聴いてみて。
「Freunde(フローインデ)」が「Florence(フローレンス)」!?
その通り。そしてこんな風に続くね…
<続きはコチラ!>
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