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父の武勇伝と夫婦のかたち


「お父さん、ショムニみたいな部署に、左遷されたことがあるのよ」
 お盆の過ぎた実家で、会社員時代の父の話をきいた。

 細やかな機微を感知しない、良くも悪くも鈍感な人。
 娘のわたしから見た、父の人物像だ。幸運なことに、歴史好き特有の公正さを持ち合わせていたため、鈍感さは「物事に動じない」と評価され、会社では頼りにされる存在だったらしい。
 大きなレジャー施設の副支配人を務め、ときには反社会的組織の方々を相手に、臆することなく交渉した。部下からの人望も厚かったそうだ。

「ところが、新しくきた支配人の◯◯さんに嫉妬されちゃってね。『ここに飛ばされたら終わり』みたいな部署に異動させられたのよ」

 異動した部署のさびれた雰囲気、吹き溜まり感は、昔テレビで放映されていたドラマ『ショムニ』とそっくりだったらしい。
 ショムニは「庶務二課」。まじめだけれど要領のよくない主人公が配属されたのは、社内でも有名な左遷先、ショムニ。薄暗い部室、風采のあがらない上司。だが、清々しいまでに我が道を行く個性的なメンバーが力を合わせ、様々なトラブルを解決していく。痛快なオフィスドラマだった。

 ところで、父に対するわたしの想いはちょっと複雑。お金の心配をさせずに育ててくれたこと、いつも穏やかだったこと、わたしの選択をいつも尊重してくれたことには、深く感謝している。
 一方で、ひとりの男性として見たときは、お世辞にも評価しているとは言い難い。

 その昔、父の母(わたしの祖母)が吐いた言葉は、長いこと母を苦しめた。それを、見て見ぬふりを続けたのが父だ。

 明るく行動的だった母が、家に閉じこもってしまった数年間がある。わたしが小学校高学年から中学生、ちょうど思春期の頃のことだ。キッチンで調理しながら、やり場のない憤りを壁に向かって吐き続ける母。あの後ろ姿を思い出すと、今でも心がぎゅっとなる。

 父にはできることがあった。子どもながらに、何か行動してくれたら変わる気がしていた。だが父は、沈黙をつらぬいた。祖母と母、板ばさみのつらさはわかる。だからといって、目の前にある叫びに対し、あそこまで無反応でいられるものだろうか。母の憎悪は父に向き、夫婦の関係は袋小路に迷い込んだ。

――お母さん、離婚しちゃえばいいのに。
 不遜にも思春期の数年間は、そんなふうに思っていた。
 生涯のパートナーを選ぶときは、父のような男だけは選ぶまい。その決意は深く染み込み、わたしの恋愛観にも色濃く反映している。悲しませたくはないので、父に伝えたことはないけれど。

 父と母の関係は修復不可能に思えたが、40年を経て、それなりの夫婦のかたちに収まった。 
 独りでいる孤独より、一緒にいるのに孤独な方がしんどいのではないだろうか――少女のわたしが、心の中で繰り返してきた問いだ。合わない人と生きるくらいなら、独りでいた方がいい。父と母を観察し、そう思ってきた。けれど当人達は生きざまで、もう一つの答えを教えてくれた。

「おのづからあひあふときもわかれても、ひとりはいつもひとりなりけり」
 母が気に入って購入した書にある、一遍上人の言葉だ。

 この言葉との出会いをきっかけに、人間は孤独なものだと腑に落ちた母は、人に期待することを辞めた。そして自らの手で、人生を謳歌しはじめた。50歳でマンション販売の仕事に就くとトップ営業まで昇りつめ、運よくバブルの末期に滑りこんだことで歩合給を稼ぎまくった。祖父母の介護が始まるまでのほんの数年だったが、そのときかけた個人年金で、ダンスに旅行にとシニアライフを満喫している。
 父の定年に合わせてピースボートの旅を計画し、二人で南半球を一周、共通の思い出と友人ができた。

 定年後の父は、地域のコミュニティにするりと馴染んだ。趣味のサークル活動に参加し、ボランティアにも精を出した。定年後の人生の好ましいサンプルのようだった。
 めっきり体力が衰えた最近は、暑いから夕方に散歩してねと言われると、あえて真っ昼間に出掛けたりする、天邪鬼で扱いにくいジイさんである。面相は悪くない。

 二人とも、歳をとった。

「家でのお父さんは、もうやあねと思うことも多いんだけど、会社にいたときの話をきくと、尊敬できるのよ」

 母の話はつづく。
 父の左遷先は、新たな市場を開拓する部署だった。一般的にはデキる営業マンが集まりそうな部署だが、父の会社では違っていた。何もしなくても売上げが上がった当時、いてもいなくても困らないよという扱いだったのだという。振り返ると、深夜だった父の帰宅が早くなったなあと感じた時期と重なっている。

 出世コースから外れ、時間を持て余していた部員達に、父は発破をかけた。
「オレが責任を持つから、好きなことをやれ!」

 ドラマのような話だが、その一言で営業開発部は躍動した。期待されなくなった人間が、「まだ終っていない」と気づかされたときの喜びは、いかほどだっただろう。鈍感な父のこと、部員を鼓舞しようなどという気負いはなく、与えられた役割を果たそうとしただけだったような気もするが。

「責任を持つとは言ったものの、中にはどうしようもない企画もあって、『それはお前の責任でやれ』と言ったこともあったんだって」
 楽しそうに母は続ける。

 父の異動を機に、営業開発部は現在の礎となる企画をスタートさせ、20年後には会社の中枢を担う部署となった。

 わたしの知らなかった、企業人としての父の顔。退職後の父は、年に数回当時の部下に招かれ、宴を楽しんでいるのだという。
「お父さんの黄金時代だね。当時はどんな気持ちだったの?」
 そう問うと、照れているのか本当に忘れてしまったのか、首をかしげるばかりで何も言わない。

 静かな驚き。物語は、父の側にもあった。幼いわたしが母の傍ら、シンクロしながら覗いていたのとは別のストーリーが。

 もっと父の話をききたいなあ。

 人は、多面的に生きている。
「悪い人ではないけれど、人の気持ちには鈍感だよね」
 その角度でしか、父を見たことはなかった。平凡にサラリーマン人生を終えたとばかり思っていた。相手との距離が近いほど、自分のいない場所で紡がれた物語には、気づきにくいのかもしれない。

 けれども、そういう話こそ聴いておきたい。聴いておかなければ、消えてしまうのだろう。小さな冒険談を聴くために、また実家に立ち寄ろう。


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