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ボランティアに行って、バスで泣いて、1年後の盛岡冷麺

「君たちニュース観た?東北の方、すごいことになってるみたいだよ」


友人と京都観光をしていた私は、全く見ず知らずのおじさんにそう話掛けられて「あ、さっきちょっと揺れたやつですか?地震怖いですよね」と世間話をするかのようにそう言い返した後、街中で流れる緊急速報に目を奪われた。画面の中で必死に背後の津波から逃げる自動車が映り出されていたからだ。

東日本大震災から10年。

私はあの震災で被害を受けなかった関西の人間だ。だからこそ、どこか他人事のような、違う世界の話のような気持ちが抜けないまま過ごしていた。そんな冷めた人間が、岩手県に1週間ボランティアに出掛けて思い知った現実と葛藤を書いてみようと思う。


仲間外れになりたくなかったから

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金曜日の地震から週があけた月曜日。私の友人達は「東北にボランティアに行こう」と騒いでいた。悲しげな顔をして目が焦っていて「とにかく出来ることは何?調べて何かしよう」と話し合いをしていたのだ。

私の友人達は福祉について学んでいて、自分たちが行動することが義務のような顔つきだった。私は素直にその友人達を心から尊敬するのと同時に「まだ余震の危険性がある所に行こうだなんて正気なの?」とも思っていた。


当時よく一緒に行動していた友人達5、6人全員がすぐにボランティアに出掛けた。私一人を除いて。

正直に言って私には自分の危険を犯してまで現地に行く勇気がなく一緒には行けなかった。だってまた地震が起きて、津波が来たらどうするの?自分達まで死んじゃうかもしれないんだよ?
私は友人たちが重たいリュックを背負ってバスに乗り込む後ろ姿をただじっと見つめることしか出来なかった。


数日後、友人達がボランティアから帰ってくると、当然仲間内の話題が東北の話題になっていった。「一度きりの行動じゃ意味がない、こういうのは継続して支援していくことが大事やんな」同意すると共に、私だけがボランティアに参加していない事実に負い目を感じ、「自分も行かなければ」という一種の義務感を感じるようになっていった。

早く、早く私も行かなければ。私が彼らと一緒に過ごす価値がない。偶然、夏休みを利用した学生ボランティアを募集しているボランティアツアー(ツアーと言っていいのか分からないがこれ以外に言葉が見つからない)を見つけることが出来た。良かった、これで私も行ける。そう思ってネットでボランティアツアーに予約し、夏休みに一人で岩手県に1週間ボランティアに出掛けることに決めた。


◇◇◇◇


ボランティアツアーへ行く為に、深夜の京都駅の夜行バス乗り場に行った。乗り場には関西各地から集まった学生たちが数十人、もしかしたら100人くらいの人数が集まっていた。そのボランティアは岩手県の各被災地で泥かきや仮設住宅でのコミュニティ作りといった作業をするボランティアだった。全員が岩手県の大きな体育館に集まって、寝袋を使って雑魚寝しながら1週間毎日割り当てられた地域でボランティア活動を行うのだ。

基本的に関西から岩手まで直行で行く夜行バスは無い。大体東京か仙台で乗り換えるのだが、私が乗ったそのボランティアバスは岩手までの直行便で、約16時間だか18時間バスに揺られながら現地に到着するのをひたすら待った。地震や津波の影響で使えない道路が多く、迂回しながら進んだので余計に時間が掛かった。正直長すぎて時間感覚がバグって結局何時間バスに乗っていたのか覚えていない。当然お尻の痛さと足の浮腫は最高潮だった。

その時の私の心情は、あーやっと仲間に顔向けできるという安心感と、これから1週間寝袋で寝て生活をしなければいけないのだと言う緊張感だった。
正直、被災地の人達の悲しみなどは想像出来なかった。そもそも理解できるとも到底思えなかったのだ。とにかく行かなきゃという気持ちだけだった。行けば何かは出来る、それくらいしか私の頭では考えられなかった。

そしてわざわざ夏休みを使って1週間もボランティアに行く私って偉い子だなというくだらない優越感を静かに感じていた。いま思うと本当に反吐が出るくらいくだらない感情を自分は抱いていた。

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あ、私はいま被災地に居るんだな

岩手県の体育館に到着してから私は4人の友人に出会った。

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内2人は同い年で、10年経った今でもご飯に行ったり誕生日を祝いあったり、なんでも話せる親友とも言える存在になった。初対面でいきなりどすっぴんの寝袋生活を1週間共にしてたらもう気を遣う部分など皆無で全てを曝け出せる友人だ。私たちの鉄板ネタが「同じ関西在住なのに初対面が岩手」というネタだ。

私たちはそれぞれ違う地域でのボランティアをして毎晩寝袋に入りながらそれぞれの活動中にあったことや感じたことを話し合いながら過ごした。


私は主に「仮設住宅地の共有スペースでの地域コミュニティ作りのお手伝い」というボランティアをしていた。

突然の地震と津波で家を失った人達は避難所や仮設住宅で過ごすことになるのだが、近所の人達と離れ離れになったりしてその地域でのコミュニティが崩壊してしまっていた。

その影響で孤独死やどこに誰がいるのかの把握、支援の行き届かない世帯を出さないために誰かと繋げる仕組みが必要だったのだ。その為に仮設住宅には共有スペースがあり、そこに顔を出して仮設住宅での新しい地域コミュニティを作ることで、お互いに助け合うことが重要だった。私はその仮設住宅に派遣されて地域コミュニティ作りのお手伝いをするのが任務だ。

他に瓦礫撤去や泥かきなど肉体労働の活動もあった。ボランティアに来る前は、むしろ肉体労働が主な活動だと考えていたので、コミュニティ作りといった精神面での活動もあるのかと初めて知ったくらいだった。
孤独死は当時問題視されており、絶対に防がないといけないものと教わった。私がボランティアに行った頃には地震発生から半年が経過していた。修復出来る外壁や建物とは違い、時間が経つに連れて心のケアの重要性が増していた。
時間が経っても、心は治せないのだ。


◇◇◇◇

泥かきの活動をしていた時のことだった。
突然地震が発生した。

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大きな警報音が街に流れて「津波が来るかもしれません、すぐに近くの高台に避難してください」と活動リーダーに言われて、泥かきをしていたボランティアの私たちや近隣住人の人達が一斉に高台に集まって避難した。

恥ずかしながらも私はその瞬間に初めて「あ、私はいま被災地に居るんだな」と実感した。

爆撃を受けたような倒壊し黒ずんだ建物を見ても、ぺちゃんこになったガソリンスタンドを見ても、学校のグラウンドに何十メートルに渡って積み上げられた瓦礫を見ても実感出来なかったのに、一度の地震と警報音と青ざめた近隣住人の人達の顔を見て初めて実感出来たのだ。心臓がバクバクいってうるさかった。

なんと、恐ろしいものなのか。


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平和過ぎる世界がとてもとても悔しかった

時間というのはどこまでも平等であっという間に1週間の活動が終わり、私は関西に帰ってきた。

帰宅するとあっけなく私にとってのいつもの日常が戻ってきた。明日の英語の予習しなきゃなとかバイトのシフトが明後日に入ってるなとか。私はいつも通りに学校に行くために歩いて、改札を通って、電車に乗って、乗り換えして、バスに乗った。

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バスのつり革を持ちながら、青色の空と道の真ん中に綺麗に植えられた街路樹を見ていた。京都は他の地域に比べてどこを見ても緑がある。それを「あぁ綺麗だなぁ…」とぼんやり思っていた。


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平和だった。


自分の居る場所が恐ろしい程理不尽で残酷で、そしてなんと平和な世界なのだろうと思った。そしてふつふつと込み上げてきた感情は怒りでも悲しみでもなく、悔しさと安堵だった。

私は「被災地の人達と同じ立場で居られない自分」が悔しかった。どこまで心に寄り添おうと努力しても、当事者にならないとこの辛さや悲しみは理解できない。そのことが現地で痛いほど感じた。そして同時に当事者ではない自分に安堵したのだ。

自分は生きてて良かった。
自分の家や家族はみんな無事だ。
友達もバイト先のみんなも生きてる。
本当に良かった。

そしてその感情を表に出せる程の平和で安全な場所に帰ってきた事実が、恐ろしい程残酷に思えた。壊された世界からいきなり平和で安全な世界に飛ばされた現実があまりに唐突だった。ここは本当に同じ日本なのか。


岩手県にいて活動する時は朝起きると今日はどういう作業をするのかなとか、どこが破損してるのかなとか、ちゃんと長靴の中敷きしておかなきゃとかそんなことを考えてた。
あーこの電柱壊れてるなぁとかここ津波が来たから汚いなぁとか、仮設住宅の子ども達は学校行けてるのかなあとか。


自分が乗っているバスのつり革を握りながら同じバスに乗っている乗客を見て言葉で説明できないような感情を感じた。

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「なんでみんなスマホいじっていられるんだろう」
「なんでこの人は音楽を聴けてるのかな」
「なんで私はここでつり革を握って悠長に学校になんか行ってるんだろう」
「なんで呑気に勉強なんかするんだろうなぁ」


被災地でボランティアをしている時は絶対に泣かないと決めていた。私なんかより泣きたい人達が頑張っているからだ。生命が保証された場所への安心感なのか、悲しさなのか。平和過ぎる日常が怖くなって悔しくて悔しくて泣いた。

自分の大切な人が死んでも、それでも朝は来るし、電車は動くし、お店だって開く。みんなが朝に起きて道を歩いて、学校や会社に行く光景を「なんて残酷な世界なんだろう」と思った。

みんなしてぶっ壊れて、泣いて、この野郎ってみんなで言えたなら、そんな状況だったら、この辛さもみんなで平等なのに。なんでなんだとこの理不尽さを恨んでは、自分の大切な家族や友人や好きな漫画や家具が壊れていない現実に安堵してる自分に気付いて悔しかった。
なんであそこの人達はいまも辛いのに私はこうして安全に過ごせているんだろうという罪悪感で胸が潰されそうだった。
そして今度こそ本気で「何かしたい」と思えた。


ボランティアではなく、観光客としてもう一度

自分の出来ることを何かしたい。
そう思って自分に出来ることはなんだろうと考えた。

ただもう「ボランティア」としてもう一度岩手に行くことはしたくなかった。これは個人的な意見だが私は頭に「被」とつく単語が好きではなかった。被害者とか被告人とか被災地とか。この漢字が頭につくだけで何故か弱い立場にさせられるような印象を受けるからだ。ボランティアとして行くとどうしても現地を「被災地」として見てしまう。あぁ辛い場所だね、なんて最初からマイナスの気持ちでその場所を見てしまう先入観が私は嫌だった。


1週間ボランティアに行って感じたことが2つあった。
一つは瓦礫撤去や泥かきなど直接的な支援を必要としていること。
もう一つがお金、仕事を求めていることだった。


労働はクソ、仕事はクソと考えていた私でも倒壊した建物を目の当たりにして、いつも通り仕事が出来ること、働ける環境があることは本来尊いことだと知った。それはつまり「自分が必要とされている場所」でもあったのだ。現地では仕事を失った人達が沢山居て、とにかく仕事が欲しい、生きるためにみんな仕事を求めていた。

不十分でも、かりそめでも良いから「あぁやっと日常っぽいことが出来てきたね」という実感がほしい、日常が恋しい。いつも通り会社で仕事をしたり、学校に行ったり、友達と話し合って笑ったり、そういう普段の日常が堪らなく恋しいのだと感じた。

だから私は現地の人達に日常らしいことをして欲しかった。
普段私は関西の人間で岩手には居ない、岩手に来るシチュエーションと言えば旅行だ、観光客だ、お客さんだ。私の出来ることはお客さんになることだった。だから次はボランティアではなく、観光客として行こうと思った。私は現地に職場を提供出来ないが「お客」として仕事を作ることは出来る。

私は1週間のボランティアを通して、復興していく現地を見て自分が行うことも今後変化させていかなければいけないと思った。観光客として、お金を落とすために行こうと思った。
本来私の役回りはこうあるべきなのだと思った。私は現地の人達が日常らしい行動が出来る駒としてその役回りをしたかった。


「結局金かよ」と思われるかもしれない。
そうだよ、金だよ。
生きるのにお金が必要なのだ。

心に覆った傷口を部外者の自分が癒せるなんてそもそも最初から思ってもいない。でも例えば現地のバスを使って銭湯屋さんに、旅館に、定食屋さんに訪れて「ありがとうございました」と言いながらお客さんとしてお金を払うことで救える人がいるかもしれないのも事実なのだ。サービスとしてもらった対価としてお金を払うことにそもそも卑しい心も関係ないのだ。だって対価だし。


そんなことを考えて、岩手で出会った友人達とご飯を食べている時に「今度はボランティアじゃなくて観光客として1年後にまた岩手に行かない?」と言ってみた。同じように考えていた友人達は「いいね!」と快諾してくれて、ボランティアに行った2011年8月の翌年、2012年の9月に私たちはまた長い長い夜行バスに揺られながら観光客として岩手に向かった。今度の夜行バスは直行便ではなく仙台で乗り換えコースだ。やっぱりお尻が痛くなった。


盛岡冷麺と牛タン弁当と

「今回は観光客として行くんだからもう思いっきり楽しむぞ!」と友人達と笑い合って、ひたすら遊びまくった。仙台で盛岡までの高速バスに乗り換える時は、バス乗り場が分からずにキャリーを片手に走り回りつつ「ここで牛タン食べないと一生後悔する!」「分かる!」「それな!」とみんなして青筋を立てながら牛タン弁当を急いで購入し、高速バスに乗った。

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バスの中で牛タン弁当を食したのだが、食べ終わってからお弁当を温かくする装置らしきものを見つけて「マジかよ!食べ終わっちゃったよ!」と嘆いたが、温かくしてたらバス内が牛タン臭くなってたからこれで良かったのだと慰めあったりもした。

盛岡駅に到着した時はみんなして「はぁ〜遂に来たね〜...」「あ、ここなんか新しくなってない?直ってない?」などと笑い合った。1年振りの岩手はなんだか新しく綺麗になっていた。盛岡駅からバスで小岩井農場に向かう途中に「ここ1年前も通ったね〜」「綺麗になったね」などとずっと言い合った。

観光として来たかった理由の一つに私の中での岩手の記憶をアップデートしたかったからだ。私の中での岩手の記憶はどうしても壊された建物や灰色や黒ずんだ印象の記憶が多い。そのままの記憶にしておくのはどうしても嫌だったので、明るく楽しい本来の岩手の姿を見て過去の記憶を塗り替えたかった。そして実際とても綺麗になっていて嬉しかった。


「せっかく盛岡に来たんだから盛岡らしいものを食べようよ」となり、盛岡冷麺なるものを初めて注文してみた。品が運ばれてきた時は驚いた。ぐ、具材に梨?りんご?が入ってる。梨って冷麺の具材になるの?お汁が赤い、辛いのか? 誰一人として「盛岡冷麺」たるものを見たことが無かった関西人の私達は「おぉ〜...!」と驚きながらパシャパシャ写真を撮っていた。

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盛岡冷麺を食べてみるとあまりに美味しくて感動してしまい少し無言になった。これは美味しい。今まで食べたことのない歯応えとつるんと口の中に入る麺が面白くて絶品だ。驚いてしまった具材も絶妙にマッチしている。
私はご当地グルメを食べるのが好きで広島のお好み焼きや博多のラーメンや仙台の牛タンなど沢山食べてきたが、美味しくて感動したのは愛知の味噌カツと岩手のこの盛岡冷麺がブッチ切りで記憶に残っている。

いやぁ、本当に美味しかった。正に新境地だと感動して、「私はこれを食べるためにここまできたんだなぁ」とふと思った。この為なら長時間バスに揺られた甲斐があったものだ。
盛岡冷麺を出してくれたお店のおじさんがすごく笑顔で「来てくれてありがとう」と言ってくれた時はちょっと泣きそうになった。あぁ、来てよかったなぁと心の底から思えた瞬間だった。


10年、お疲れ様でした。また食べに行きます

とにかく私達は遊びまくった。小岩井農場では馬にも乗ったしソフトクリームも食べた。人が入れる透明なボールに入って、丘の上から投げてもらって転がり落ちる遊びもした(自然のジェットコースターみたいだった)お土産も沢山買ったし、盛岡冷麺に惚れた私はインスタントの盛岡冷麺を数個買ったりもした。

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遊んで食べて寝て、また遊んで食べて寝た。


ご飯を食べた後、お土産を買った後にお金を払うときに「このお金が少しでも貢献出来ると良いな」と思うとお金を払う行為自体が尊く思えた。

お金とは不思議だ。
私が払ったこのお金がお土産屋さんの売り上げになって、そこから従業員さんのお給料になって、従業員さんが何かを買ったときにまた何処かのお店の売り上げになって、また誰かのお給料になって、そうしてこのお金はグルグルと回っていきこの土地が潤っていくのだ。

経済の基礎中の基礎のシステムだが、このシステムがとても尊く思えた。美味しい盛岡冷麺が食べられてこの土地が潤うのなら良いことづくしだ。
経済の知識としては理解していてもいざ自分が実際に実感する機会が無かったので、初めて私は「これが良いお金の使い方かもしれない」とぼんやり考えていた。

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何事も自分の出来る範囲のことで自分の出来ることをやり続けていくのが大事だった。私はそんなに体力が無いし肉体労働も苦手だけれど、私なりの方法で私に出来ることをしていこう。

今でも物産展やスーパーで盛岡冷麺を見つけたら買ってしまう。
ただ何度やってもあの盛岡で食べたあの味には近づけない。麺のコシが全然違う、絶対あのおじさんが作ったお店の冷麺の方が美味しかった。当然だけど。具材に梨やらりんごやらキムチを入れる斬新さが今でも頭に残っている。
ふるさと納税も自然と東北地方から選んでいる。ほんの僅かな金額でも、少しでも役に立てられてるなら嬉しい、私はそれで良い。
小さいことでも良い、自分の出来る範囲で長く続けることが大事なのだ。


10年、お疲れ様でした。
また10年、頑張りましょう。応援しております。

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