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部落差別という呪いを受けた村に生まれた話

このnoteを公開するかどうかかなり悩んだ。
それは私の中での感情の着地点が見えず、これを公開することでなんの意味があるのだろうと自分でも分からなかったからだ。
だけど、もうこのタイミングではないと恐らく今後もう一生これを書くことはないだろうと思った。だから備忘録として残してみようと思う。


これは私の奥深くに居座り続ける一種のアイデンティティでもある。


◇◇◇◇

アメリカで広がっている人種差別のニュースを観て愕然とした。
アメリカ建国の父の一人であるトーマス・ジェファーソンの銅像が薙ぎ倒される映像が流れてきたからだ。

私は歴史を学ぶのが大好きで、アメリカ史の本も読んだこともあった。
その為、アメリカ史において偉大な銅像が薙ぎ倒される映像は歴史好きの人間として相当ショックだったのだ。

同様にイギリスでも人種差別を容認したとされる歴史上の人物の銅像を撤去する運動が活発になり、銅像を川に落とす映像が流れてきて目眩がした程だった。
黒人の男性がテレビのインタビューでこう答えていた。

「こんなものは無くしてしまった方がいいんだよ」

その言葉を聞いて歴史好きとして怒りを覚えたのと同時に、一歩引くと全く同じように考えている自分がいることにも気付いたのだ。気付いた瞬間に何も考えられなくなっていた。


「同和問題」「部落差別」という言葉をご存知だろうか。
簡単に言えば江戸時代の士農工商の身分制度から基づく身分差別のことであり、住む地域・地区によって差別を受ける地域差別のことだ。
「出生地ガチャ」のようなものであり、差別される地区が存在し、その地区で生まれた者は差別されるというものになる。
そしてその地区の人間を「部落出身者」「被差別部落の人間」と言われる。


私は部落出身の人間だった。


「部落の人間だから、差別について学ぼうね」と言われて数年間学んだ

私は周りが山に囲まれて、電車もバスもなく、街灯もない小さな村に生まれた。
冬になれば動物が餌を求めて山から下山してきて、車に轢かれて死んでいる死骸を学校の登下校中に見ることもあった。
鹿、猿、イタチ、きつね、たぬき、猪。沢山の動物が身の周りに居た。そしてよく死骸を見た。

空にはワシが飛んでいて、幼稚園の頃は「決して一人で帰ってきてはだめ。ワシに拐われてしまうよ」と冗談なのかよく分からないことを言い聞かされていた。今の時代だと人間に気を付けるべきだが、当時は人間よりワシの方が怖かった。


私が生まれたそんな自然溢れるのどかな村は、他の村とは違うところが一つあった。


私の村は部落差別を受けていた村だった。


◇◇◇◇


「この村は昔、部落差別を受けていました。だからみなさんは部落差別について学びましょう」

小学校の毎週木曜日は集団下校の日だった。幼稚園から小学校六年生までの生徒が二列になって帰宅する。学校から家まで片道約一時間の道を歩いて帰った。

普通なら家に着いたら集団の列から抜けて帰宅できる。だが第ニ木曜日と第四木曜日は違った。家に着いても列を離れず、みんなして公民館に集まるのだ。
ここで約ニ時間、差別について学ぶ課外授業があるからだ。
小学校の教師が学校終わりにわざわざ私達の地区の公民館に集合して授業をしてくれるのだ。

私はこれが普通だと思っていた。
私たち以外の地区のみんなも各地区の公民館に集まって課外授業を受けているのだと思っていた。「私達の村にこんなに先生が来ていたら先生の数足りるのかな...」と考えていたほどだ。

ある日友人にその話を振ってみたら「そんな課外授業受けたことないよ」と返ってきた。
「え、そうなの?」と私はきょとんとした顔をして言った。
なんで?どうして私たちだけなの?と疑問が頭をよぎったが、幼稚園から受けていた課外授業に今更疑問を持つことも不毛だと思い、「そうなんだ」と受け止めた。
小さい自分には「部落差別」と言うものがよく理解できていなかったのだ。

『木曜日はみんなで公民館で勉強する』それくらいの認識でしかなかった。
私の世代には部落差別自体がほとんど無くなっていたので実感する機会がなかったからだ。

部落差別なんて意識さえしていなければ、特に支障のないものだった。
だが今思うと、確実にあの村は何かが違っていた。空気が重かったのだ。長年離れて暮らしてようやく分かってきた。

あれは呪いだった。


差別そのものではなく、過去の歴史から生まれた劣等感という呪いが村全体を覆っていた

私が一番嫌いだったのは「差別を受けた村」という事実から生まれる村での執着とも言える結束を謳う集まりだった。

村全体が、みんなで集まることや、まとまっていくこと、何かを作り出すことに必死だった。村での年間行事は他の地区に比べて異常な程多かった。
毎月何かしらの行事があって、参加しないと白い目で見られた。
何かにしがみ付くようなその集まりが私は辟易するほど嫌いだった。

私は差別そのものではなく、過去の歴史から生まれた劣等感という呪いが村全体を覆っているように見えた。


部落差別は、その地区の人間以外は全て敵だった。
国も行政も会社も学校も教師も全てが敵になって、部落の人間を迫害した。
学校では部落の人間だけがまとめられて、教室の片隅に並ばされ、手を上げても無視される、そこに居るのにまるで居ないかのように空気のように扱われるのだ。

就職でも、部落出身者と分かれば問答無用で落とされた。どこも雇ってくれなかった。結婚も相手が部落出身者と分かると途端、穢れを見るかのように反対された。
頼れるのは同じ部落の人間しか居なかったのだ。

だからこそなのか、私の村ではやたらと結束を謳うように事あるごとに公民館に集まった。子供は子供のコミュニティーがあって、大人は大人のコミュニティーがあった。そこで村の一員として生きていくのだ。

当然、私の世代になれば部落差別はほとんど無く風化していた。
両親の世代には差別の影響があった。
私の両親は結婚するときに結婚差別を受けた。父が部落の人間であったために、母の親が結婚に反対したのだ。しかし母は「そんなものくだらない」と一蹴して結婚して、村に嫁いできた。

差別は時代と共に少しずつ無くなっていった。

それでも、何かにしがみ付くように村での集まりは多かった。

皮肉だった。
過去に差別を受けた村は全地区の中でも多くのいじめっ子を輩出していた。
いじめをしている人間が差別について学んでいたのだ。


私はそれが大嫌いだった。


早く大人になりたかった

村ではいじめが常にあった。
そしてターゲットは気紛れで、自分が当たることもあれば、別の子になることもある。上級生が下級生を狙うことが多かった。

毎朝の集団登校で遅刻した時に、集団の列に追いつこうと走った。すると自分が走るタイミングと同じに集団の列も走るのだ。始めはどういう状況か分からなかった。もう一度追いつこうと走ると、同じく集団の列も走っていた。

そこで気付いた。私が走っても追い付けられないようにみんなが走っていた。

先頭にいる小学六年生の村のボスが「あいつが追いつかないようにお前らも走れよ」と下級生にいうのだ。だから走っても走っても追いつけない。集団にいる一年生や幼稚園の子もそのボスの命令に従って重いランドセルを持ってボスのいう通りに走らなければならない。

追いつこうと走っても「あ、あいつまた走ってくるよ!早く!」と他の子が偵察のように私を見て嘲笑うかのように先頭に報告していた。何もない田舎には雑音という雑音がほとんどない。私を笑っている声ややり取りしている声が聞こえていた。

追いつこうと走る。
すると前の集団の列も走る。

走っても走っても追いつけない。そして途中で追いつくことを諦めて走ることを辞めるのだ。集団の力とは恐ろしいものだった。世界から自分が拒絶されている気分だった。

唯一の回避方法は自分が年長になることだった。
六年生にさえなってしまえば同級生と上手く付き合っていればなんとかなるからだ。歳をとることが一番簡単な回避方法だった。自分が高学年になればなる程、世界が平和になった。

中学生になれば集団下校など無くなって同じ地区の人間と下校する決まりも無く、好きな友人と自由に登下校できるので村の人間など関係無かった。
だから早く中学生に、早く大人になりたい。ずっとそんなことを考えていた。


そんなくだらない世界に私はいた。


◇◇◇◇


村での行事への参加は絶対だった。

夏祭りやクリスマス会など大きな行事では子供達が催し物をしなくてはいけない。その練習に毎日公民館に集まるのも苦痛だった。
大人も大人でいくつも村の会議や集まりがあり、いつも愚痴をこぼしながら集会に行っていた。
みんなで集まってみんなですることに意味があった。


「村八分」とはよく言ったものだ。
私の村ではその制裁行為に「部落差別があった村」という重いオプションが付いた。

幼稚園から小学生六年生までの七年間は本当に地獄だった。
「今日のターゲットは自分かもしれない」と思いつつ行事に参加しなくてはいけないのだ。どこが楽しんだろう。

この経験から私は地域の祭りが少し苦手になった。今でも夏の祭りはあまり行かない。


◇◇◇◇


学校生活よりも村での集まりの方が私には苦痛だった。いつも目立たないように大人しい子供を演じた。私は村の中で処世術を学んでいったのだ。

だから学校のクラス内で誰かがいじめを受けていた時は、私はいじめに加担もしなかったが、特別助けることもしなかった。ただ普通に接するだけだった。
授業などの連絡があれば普通に言うし、特別仲良くすることもない振る舞いをした。ごく普通のクラスの人間と言う立ち位置だ。害のない生徒を演じた。

ただどういう訳か、教師からは「いじめに関係なく仲良くしてくれる生徒」として映ったらしく、クラス替えがある度に友人が少なそうな子と一緒に組まされた。
必然的に私とそういう子が一緒に行動することになった。
当時仲良しグループだった5人組で私だけが誰とも組まされずに一人離された時は流石に教師を呪った。

仕方がないのでそのまま普通に過ごしたが、その後教師から生徒会に勧誘された時は流石に笑った。「それって誰にでも言ってることですよね」と笑って言ったら「そんな訳ないじゃないか」と返された。良い子を演じ過ぎていた。


あなたがそれを言うんだね

私は部落差別の被害を実際に受けたとこはないし、その頃には差別自体が風化していた。
だからこそ、私は差別そのものに苦しめられてたというよりも差別が生んだ副産物のような村の呪いに苦しめられてた。

部落差別を受けていた私の村は差別そのものを具現化したような場所だった。
嫌味や嫉妬、蔑みや憎悪などの負の感情を全て凝縮したような場所だった。

全てが監視されているような感覚で、村の中で何かしたら「〇〇家はちょっとおかしいわよね」と言われた。結束は絶対で、村の中での立場も考えて、みんなと同じように行動することが正義であった。
この重圧に耐えられずに自殺したという人を何人か聞いた。正直驚かなかった。


私の村はそういう場所だったのだ。


「差別について学びましょう」「差別を無くすために頑張りましょう」と言われて数年間差別について学んだ。勉強の成果を発表する発表会も毎年あった。

課外授業の定期発表会で「差別はいけないなと思いました」と発表していた子は常に下級生をいじめている村のボスのような子だった。

そう、あなたがそれを親や教師の前で言うんだね。
子供ながらにそう感じた。


本当にくだらない世界だった。


私は私の中で生まれ故郷を抹消している

中学に入ってからも差別についての学習を続けるように言われたが、その頃にはその意味を全く理解できずに私は学習することを拒否した。

学校が一体となり全校生徒が同じように学ぶならまだしも、何故部落差別の被害者であった私たちだけが学ばなくてはいけないのだ。
しかも実情は学んでいる人間がいじめ側に陥っているではないか。馬鹿馬鹿しいにも程がある、と思春期ながらに反抗した。


だから言う。
差別を全く意識しなくなったのはその学習をやめてからだ。

この手の一番の特効薬が忘れること、関わらないことだった。
誰もが知らない、気にしない世界に行くことだった。

「被差別部落出身です」と分かれば分かるほどそのフィルターが付いてくるのだ。
だから何も言わない、みんなが無知であることが心地よかった。

一番差別を感じたのが村に居る時だった。村には呪いのような空気が常にあると感じた。
だから私は田舎にトラウマがある。村社会にトラウマがある。
程よい距離感を保てる都会の方が生きやすいのだ。
だから私は都会に出てきた、田舎には帰らない。

誰もが自分の人生を生きることに集中していれば良いのだ。
田舎によくある「〇〇さんがこの前ね...」とくだらない井戸端会議なんてしないし、寧ろ隣の人の顔だって知らない。
そこまで他人に興味がない。

これでいい、これがいい。


◇◇◇◇


「日本は差別なんてないよね」

そういう人達を見て私は思う。

違うよ、あったんだよ。
あったから呪いのような村が出来たんだよ。
そして私はそこで生まれたんだよ。
地獄のような日々だったよ。

でもそれでいい、そのまま知らなくていい。
だから何も知らなくていいし、興味を持つことも必要ない。
「忘れて欲しい」とも思えた。

学ぶことを強制させられた自分が、一番自分らしく楽しく全てに解放されて生きていくことができたのが「被差別部落であった村と関わらない」ことを決めてからだった。
私が中学生になってから我が家は村から引っ越した。そこから出来るだけ関わらないようにしている。

だから私は私の中で生まれ故郷を抹消している。


多分、私は何も出来ないだろう

会社で新入社員の入社手続きのレクチャーを受けている時だった。
上司から「入社書類としてもらうのは『住民票』ではなく『住民票記載事項証明書』にしてね」と言われた。

「何が違うんですか?」と上司に質問した。

「住民票だと本籍が書かれているから。これは就職差別をしない為だよ。えっと、部落差別って分かる?」


新しい土地に引越しをしようと不動産屋さんと物件を回っている時だった。
不動産屋さんが「ここから先は他に比べて少し家賃が安いんです。ええと、ここは昔少し差別を受けていた地域で...。同和問題って分かりますかね...?」


はい、よく分かります。
私も部落出身の人間ですから。


気にせず忘れて生きていても、ふとした瞬間に顔を出してくるんだなと感じた。
これは一種の私という人間を構成するアイデンティティでもあった。


◇◇◇◇


テレビから流れてくるニュースを観て、銅像を川に投げ込んで「無くしてしまった方がいい」と発言した黒人の男性のことを考えた。

「無くしてしまった方がいい」と思う感情は「みんなで忘れてしまおうよ」ということなのだろうか。どういう意味での「無くす」なのだろうか。

過去は消すことは出来ないのだから、全てを忘れてしまえば実質的に無かったことにできる。その意味では私は「無かったことにしている」。受け入れるとかそういうのはいらない。むしろ来ないでほしい、関わらないでほしいと自ら拒絶しているのだ。

差別の種類や事の大きさも比べられない程違うが、「忘れてしまおう」という感情ならばそれは嫌という程理解できた。
そんな事実なんて無かったことにしてしまった方が楽なのかもしれない。
知らない、無知であるからこその幸せもあるのだ。


その感情の中に「それが歴史だから」とか「歴史認識が狂う」とかそんな賢そうなことは考えない。「忘れてしまおう」と感情論で激しく同意している自分がいた。
だけどその一方で歴史好きとして史実を重きに置く自分が「それは違うよ」と怒りを感じて反論している自分もいた。


感情が混乱した。
本気で、何が良いのか分からなくなっていた。


多分、私は学生時代に演じた良い子のようにこれに関して何もしないだろう。

多分、私は何も出来ないだろう。


たった数十秒、黒人の彼のインタビューで怒りを感じた後、過去の記憶がよみがえり何も考えられなくなってただ呆然として私はテレビを観ていた。



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はじめましてこんにちは、Okakiです | 別に何者でもないですただのオタクです | お仕事はデザインしたり書き物をしたりしています | デザインやお仕事のご依頼等▶︎okakiweb@gmail.com | 作品集 ▶ http://okakiweb.com/

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コメント (8)
忘れるのは、今この瞬間、過去の概念にとらわれずに生きるため。忘れないのは、未来において同じ歴史を繰り返さないため、ではないかと思いました。
モーガン・フリーマンがインタビューで「差別問題を解決したいなら、それについて語らないことだ」と答えていたのを思い出しました。
驚きました。自分と全く同じことを「部落」の中で感じ取っていらっしゃったことに。
私の場合、いろんな人の寄せ集めの社宅に住んでいた5、6歳の頃、親友の家に川を渡って遊びに行くたびに全く同じ「重苦しい空気」感じていました。13歳の頃、母親にその親友は「部落」に住んでいて、部落の人だったのだとさらっと告げられました。
当時私はものすごいショックを受け、被差別部落の歴史から、水平社のことまで本を読んだ記憶があります。あの重苦しい空気の「答え」は強烈なものでした。数年前にGoogle マップで古地図が見られるようになった時、やはりあまりに露骨な部落を表す地名に非難が上がりました。その時、同じように、地名はその土地の歴史であり、消し去ってしまうことと差別との折り合いをどうしたものが考え込まずにいられませんでした。
書いてくださってありごうございます。
当事者の素直な告白に敬意を表します。しかし書き手さんが「歴史を消す」をテーマに作っている対立軸の中に、そのジェファーソン像を倒した黒人さんは、いないと思いました。
おそらくその黒人さんは、この記事の中に当てはめると、部落地域の集まりや団結、運動の側にいると思います。
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