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2024.9.8 試合〜チャレンジする許可を出す

 いま、コスモスが満開。
 日中はまだまだ暑いけど、朝晩は涼しく肌寒いくらい。
 秋は、確実に来ている。

秋の団体戦

 晴天に恵まれ、暑いくらいだった日曜日。
 団体戦のお誘いがあって参加してきた。
 私の出番は3回あって、スコアは1−6、2−6、3−6の3敗。

 すっかり落ち込んだ春の試合と同じスコアだが、気分的にはぜんぜん違う。
 メンバーも、大会の雰囲気や緊張感なんかも違うが、自分の見方・考え方にも大きな変化があったと思う。

欠点というものはない

 試合に出るのだから勝ち負けがあり、今回も3戦全敗という結果になった。
 いままではここで、敗因とかミスの原因とか、直すところや足りないものを考えていた。
 勝ったとしたら、このプレーがよかったとか、あのショットの調子がよかったとか、考えていただろう。
 要は、できる・できないとか、長所・短所とかの視点で見ているのだ。

 今回気づいたことは、「直すところや足りないものはない」ということだった。
 「できない」のではなく、「まだやってない」、「まだチャレンジしてない」だけなのではないかと思ったのだ。

 「あのときにチャンスボールをミスしたから負けた」という試合があったとして、それは「チャンスボールを決められない」とか、「ボレーを直さなければいけない」ということではない。
 ミスも負けもただの結果であって、「ボレーができない」ということにはならない。
 「このボレーを決めたい」と思ってチャレンジしたのなら、ボレーする能力なり技術は「ある」のである。

 同様に、例えば「私はドロップショットが打てない」と思っているとしたら、それは「打てない」のではなくて、「まだチャレンジしてない」のだ。
 やってみたらできるかもしれないし、できなかったとしてもそれは単なる結果にすぎない。
 「打ってみよう」と思って打ったのなら、キレイに落ちなくてもそれは「ドロップショット」なのだ。

カラダは完璧、をテニスに当てはめると

 なんでそんなことを考えたのかといえば、「カラダは完璧に調和している」というところからきている。

 例えば痛みや不調が起こったら、その部分だけに注目しがちだけど、実はそれだけにとどまらない全身トータルな人体の仕組みは感動的ですらある。  
 痛いところとは全然別の部位に無理をかけているのが原因だったりとか、小さな不調をきっかけに人生を見直すような出来事に発展したりとか、カラダの枠を超えて自分の存在自体のバランスまでも影響を与えるのが「カラダ」なんじゃないか。
 自分ではそこまでの体験をしていないけど、本やネットでいろんな人の話を見聞きしていると、「カラダの完璧さ」が感じられる。

 奇跡的に完璧なカラダのはたらき。
 それがテニスでも発揮されていないわけがない。

 テニスに置き換えるなら、「できないことはない」、「欠点だの弱点だのはない」ということにならないだろうか。

あとはチャレンジするだけよ

 心さんブックに、「チャレンジしたら大成功」と書いた。
 テニスでも、これは当てはまる。

 悔しいミスも、負けた試合も、それは結果でしかない。

 サーブもリターンもストロークもボレーもスマッシュも、ミスする時はするけど、「できるかできないか」と言われれば、「できる」のだ。 

 全部できてるのだから、新たに得なければならないものはないことになる。
 できるように練習したり、欠点を直すのではなく、すでに自分が持っていて、できるはずのことにチャレンジするかどうかなのだ。

 今回の試合、チャレンジできたことはたくさんあった。
 その中には、うまくできたこともミスになったことも両方ある。
 どちらも単なる結果だ。

 試合はまたしても全敗だったけど、それも結果に過ぎず、自分には「チャレンジできたという成功体験」がしっかり残った。
 そういう視点に切り換わった気がする。

 そして、チャレンジしておけばよかったと後から思ったものもあった。
 しなかったのも、その選択の結果も体験である。

 次回はチャレンジしてみよう。
 それでどうなるか、想像するのもちょっと面白い。

 

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