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発酵か、腐敗か。

この世は0でできてる。だからすべてを0に保つために、0からずれたら戻そうとする働きがある。そしてその働きは、発酵と腐敗を繰り返すことで保たれている。

発酵は、二つ以上ある複数の存在を一つのまとめることで0に戻す働き。

腐敗は、全体をさらに分解して無に帰すことで0に戻す働き。

腐敗して無に帰ったものは、また発酵へとつながるので、大きく見ればすべては発酵の過程ともいえる。

0とは愛なのだから、発酵も愛。腐敗も大きく見れば愛といえるけれど、一度すべてを壊す過程を挟むので、それが愛だと気付くのには時間がかかる。

たった一つなのだから、こころの有り様も同じで、今の気持ちは発酵のサイクルなのか、腐敗のサイクルなのかを見定める必要がある。腐敗に傾いているなら、発酵へと戻す手入れが必要だから。心は己にしか見えないのだから、自分しかそれはできない。でもそのことに気付けなければ、無意識に0に戻す働きが生じして、それが病気や怪我として表れる。

発酵は、帰属感や、あなたとわたしは同じという意識。

腐敗は、分離感や、あなたとわたしは違うという意識。

目の前に生じている現象も、すべて発酵か腐敗かにわかれる、そして己がどちらに傾いているかの手がかりとなる。だから、すべては意識の表れ。

師を乞う必要はない。目の前にいる人が師だから。

自己犠牲は愛じゃない。それは被害者意識だから。あなたと私は違うという腐敗のサイクル。そして、被害者意識を持っている人は、相手に加害者の仮面をかぶらせるという点で加害者でもある。

でも、そういう気持ちになることって、やはりあると思う。ああ今、自己犠牲モードだなって、意識する。ただそれだけでいい。そんな自分が許せないとか、さらに腐敗モードを加速させても、結局いつかは0に戻るんだから。

清廉潔白になど到底わたしは生きられない。嫉妬もすれば、やっかみもする。そういう自分が許せないっていうのが若さなんだろうなー、今はもう、そんなものして当たり前やわって感じです。なんでって、目に見えているから、個体が違うから、わたしたちは源を一つにした存在ではあるけど、人間として地球に来ている限りは個体差があるから、そういう重ーい感情を抱きつつも、どのように発酵を助ける生き方をできるかってことが大事で、そのための反省、そのための行動力だもの。こどもだって、本当に無邪気に人をディスるからね。

だから、もう自分の弱さを徹底的に曝け出すつもりでいます。取り繕ってたって、発酵へのサイクル転換を後回しにするだけだもの。

今、演劇発表の練習をして入れるけれど、舞台で役を演じるって、自分を偽ることではなくて、自分を曝け出すことなんだなと、徹底的に曝け出さなければ、その役柄のリアリティは生まれないし、そうして暴いてスペースを広げることで、役柄が自分の中に息づくんだよね。演劇なんて、一つの劇をみんなでまとめあげていくというだけで、発酵の働きだし。そのためか、ここずっと、前の日記にも書いたような、心の中に残っていた過去の感情や挫折や失敗や、自分の弱さや汚点として認識していたものがどんどん溢れてくる。折角ブログやってるんだから、もうぶっちゃけよう。抱えるよりぶっちゃけて、その時のその気持ちを当時の場所へ置いて、身軽になるんだ。こんなものは人前に見せるの恥ずかしいと抱えるより、出して出してと行っていくと、何をそんなに大事に抱えてたんだ、大したことなかったなってわかる。そして次のステップに進む。

これからは、無邪気に嫉妬してやろう。それがわたしの性なのだから。

そうやって自分を認めて、統合していことが発酵の生き方なのかもね。自分の非を認められないと、他人にその非を持ってもらうことになるから、自分を切り離すことになって、それは腐敗の生き方なんだもの。

この、発酵か、腐敗か探しって、結構面白いです。

間違えることもあると思いますが、間違いを恐れたら何も残せません。だから、言葉にし続けるだけです。

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