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誰かに何かをするときに「見返り」を求めない。人の気持ちは人のもの。

今日の午後、車を運転中のこと。
2車線の道路で左側を走っていたら、右側の車線から一台の車が私の車の前に入ろうとしてきた。

ちょっと強引だなあと思ったけど、別に急いでなかったし、速度を落として前に入れてあげた。

こういう、ちょっと無理に合流したときって「ありがとう」の意味を込めてハザードランプを点滅させるのだけど、その車は何もしなかった。
それを見て「ちょっとー、礼ぐらい言いなさいよ」と思わずつぶやいた私はずいぶん器が小さい人間である。

そこで器が小さい人間は考えた。

私は、礼が言われたくて道を譲ったのか。
そんなことはないはずだ。

そもそも「礼を言うか言わないか」は相手の気持ち次第であって、私が「礼を言いなさい」と強制するものじゃない。


そういえば、以前こんな記事を書いた。

人はみんな3つの箱を持っている。
それは「大事な人」「どうでもいい人」「嫌な人」の3つ。

誰をどの箱に入れるかは、当たり前だけど本人の自由。

「私は3つの箱を持っている。でも相手も3つの箱を持っている。相手が私をどの箱に入れるかは、相手次第。もし私が相手のことを『大事な人』の箱に入れていても、相手は私のことを『どうでもいい人』箱に入れているかもしれない。そこで『どうして私を『大事な人』に入れてくれないの?!私はあなたのことを『大事な人』に入れてるのに!』って怒る。これがよくある人間関係のこじれです」

自分の気持ちは自分次第。
そして、人の気持ちもその人次第。

今日の話だと、道を譲ってハザードの感謝をしなくても、それはその人の自由。

それに私だって「礼を言われたい」と思ってやったわけじゃない。
「譲ろう」と思って譲っただけのこと。
もし「礼がなくて腹が立つ」なら、譲らない方が精神衛生上、健康だ。


日々暮らしていると、相手が自分の思った通りの反応をしてくれないときに、「なんで〜〜してくれないの?!」「普通〜〜するでしょ!」と自分の気持ちや自分の「常識」を押し付けたくなってしまうことってある。
え、あるよね?

でもそれってよく考えたら、非常に大きなお世話だし自分勝手な話。

相手には相手の気持ちがあって、それはその人の自由。
礼を言おうが言うまいが、その人の自由。

それは赤の他人であっても身近な家族や友人でも同じこと。

もしも相手に何かをしてあげたいと思ったときに「見返り」や「礼」や「感謝」を求めてしまったら、返ってこないときにきっとしんどいし腹が立つ。

だから「ただ私がやってあげたいだけなの」と思える時しか、やらない方がいいんじゃないかと思う。


人の気持ちはその人のもの。
こっちがなんとかしようと思うのは、ちょっと厚かましい話よね。

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