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小説「鳩の巣」1

「僕はなにしてるんだろう」
僕は化粧品や綿棒があちらこちらに散らばった部屋の小さなこたつテーブルを見ながらそう言った。
百子はその言葉に少し首をかしげたが、汗ばんでしっとりとした手を僕の左腕に絡ませる。
「今日は何かあったの?」
本当は僕の話を聞くつもりもない猫なで声。きっと次の僕の返事に適当に合わせて自分の話を繋げるんだろう。彼女はきっと、なんでもいいのだろう。僕が何者であろうと、僕が何を考えていようと。僕はそう思うと、なぜここに居るのかを考えることが自分を不快な気分にさせるような気がした。僕は彼女の手を右手で少し握ったあと、テーブルの上にある酢豚に箸を伸ばし口に入れた。彼女はすこし微笑みながら僕の左腕に乗せた手をさするようにうごかした。
 僕は、今日もここにきてしまった。別に彼女に会いたい訳でも、いかがわしいことをしたいという事でもない。男が思い描くような女性の部屋とは程遠い、洗濯物やアクセサリー、パック、リップが部屋の端っこに転がっている百子の部屋。ある意味これが、本当の女性の部屋なのかもしれないけれど、僕はそのような部屋を見せる彼女に対して、僕を信用してくれているとか、だらしないところも魅力的だと思っているわけではない。彼女が僕にそうであるように、僕も彼女のことをどうでもいいと思っているみたいだった。けれど、僕はここに来ることを止めることが出来なかった。
 百子は、僕が家に来ると、猫なで声でおかえりと言いながら体に絡みついてくる。そしていつも、晩御飯の準備をしているから、奥で待っていてと僕に声をかける。僕はそれに従い、小さいワンルームのこたつテーブルの前に座り、彼女が薄い桃色のエプロンを揺らしながら慣れた手つきで料理をしているところを眺める。僕が彼女の家に行くのは、週に2日ほど。いつも同じ曜日に行くわけではないのに、彼女はいつでも、二人分、それも女性と男性が2人で分けるのにちょうどの量を作ってくれる。もしかすると彼女は、僕が今日来なければ他の男を呼ぶのかもしれないし、僕がたまたま鉢合わせていないだけで僕のように不定期的に彼女の家に訪れる男数人がいるのかもしれないと思った。けれど、僕はそのようなことにあまり興味がなかった。彼女の家に週に何度も通ってはいるものの、僕は、あまり百子について独占したいという気持ちになることがなかった。それは、とても失礼なことかもしれないが彼女はあまり、見た目が美しい訳ではなかったという事が理由に1つ挙げられる。あまりにひどいかというとそうではないが、女性としての華やかさという部分では、何か圧倒的に欠けるものがあった。そして彼女はいつも、僕と話しをするときに僕の話を聞くふりをして、自分の話をしたがった。僕は彼女のそういった部分に、特別な気持ちを抱くことが出来ないと思っていた。
「明人は、酢豚がすきなの?」
百子は僕の左手に絡みつきながら手で腕をトントンと等間隔のリズムで触れてくる。まるで、子供を寝付かせる母親のように優しくそれを続けている。
「まーそうかな。でも、百子の酢豚はうまいから、結構たべちゃうな」
「そっか。酢豚ってめんどくさいけど、明人が喜ぶならまた作ろうかな」
「本当?うれしいな。ありがとな」
「うん。がんばっちゃうね」
百子は、言葉とは裏腹に淡々した口調でその言葉を発しながら、優しく僕の腕を寝かしつける。彼女の頭がぐっと僕の肩に乗った時、人工的なハトの声が小さな部屋に鳴り響いた。
「あ、9時だね。残念だけどもう帰ってもらわなきゃだね」
「そうだな、わるいないつも」
「いいよ」
百子は、空になった酢豚の皿と二人分の茶碗と箸を流し台へ運んでいく。百子は、仕事が朝早く、10時には就寝して4時台に家を出なければならないと僕に言う。本当かどうかはわからないが、そのおかげで僕と百子は9時の鳩時計を合図に分かれることが通例となっていた。今時鳩時計を使う若者なんてほとんど見たことがないが、彼女のその時計は彼女の祖母の時代から家にあったものを両親から譲り受けたものと話した。その言葉どおりに鳩時計は彼女の現代的で安価な家具類が並ぶ部屋の中で異様な雰囲気を醸し出していて、まるでその鳩時計だけ時が止まったまま同じ日の24時間を知らせているようなそんな奇妙な存在感があった。
「ごめんな、今日はゆっくりできなくて」
「いいんよ、私も早く帰らせてごめんね」
百子が僕の鞄を両手で持って僕に手渡す。彼女はいつも玄関前で僕が出ていくのを名残惜しいような言葉やしぐさをしているが、心はもう僕の方に向いていないような、表情を時折することがあった。今日も、僕の鞄を手に取った時、ふと違う百子の顔になっていた。
「またね」
「ありがとう、うまかった」
「うん」
百子は、僕に小さな笑顔を見せると玄関をゆっくりと閉めた。目がチカチカするような黄色の重々しい扉が閉まるのを見て僕は、外の空気の冷たさに気づいた。肺の中に入ってくる冷たく鋭い空気に僕は少し深呼吸して、コンクリートの階段を早足で降りて行った。

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