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電子本のページ表記

読書会で話をしているとき困るのが、その本のどこの話をしているかが共有できないときだ。参加者が全員同じ本であれば「○ページのここのところが、ちょっと気になっちゃて」と話すことができるが、私は多くの場合、電子書籍で参加しているので、○ページと言われても困ってしまう。

下記の記事は、リフロー型、つまり電子書籍で文字サイズを変えられるタイプの形式のときにページ番号が表示されない問題について指摘している。

とてもわかりやすい記事で、ページ番号の歴史にも触れながら、現在の状況と、今後のページ番号表記の規格の必要性に触れている。記事の中で触れられているように、インターネット関連技術の規格標準でもあるW3C勧告がアップデートされたり、引用表記しにくいという課題も明らかで、早く改善されたらいいなと心から思う。

ただ、一方で思うこともある。これは過渡期としての一時的な揺らぎの議論ではないかということだ。つまり、もうあと10年もすると、実は紙よりも電子本が主流になって、ページという概念が失われていく可能性もゼロではないのではないかと妄想してしまうのだ。

実際、レコードに愛着を持つ人はまだ死に絶えてはいないが、現実には音楽はCDですらなくなりつつあり、配信中心になりつつあるのではないか。P2P通信によるコンテンツ配信の代表格ともいえるNapterが登場したのが2000年代初頭で、その頃にもし「サブスクライブ中心になる」といえば、「音楽業界ってのはそういうものじゃないんだよ」と諭されたものだ。

紙の本だって、単行本もあれば文庫本もある。普及の名作や古典が文庫本されるという時代は既に終わり、売れそうなら文庫本化という世の中だ。紙の本ですらパッケージが変わればページも変わる。読書会で「○ページのところが」と言ってもしょうがないのだ。

であれば、将来の電子化時代を見据えて、ページではなく、なんらかの別のアノテーション(注釈)型の、索引やメタデータの方がよいのではないか。そんな気もするのだ。

そもそも、ページという概念は、テキスト型のコンテンツに特化したものだ。絵画のような二次元情報、建築のような三次元情報について、「この部分が」という索引はつけにくいし、映画や音楽などもシナリオ・絵コンテ・楽譜がなければ、「この部分が」という指摘はしにくい。ページという概念自体が20世紀型の表現記法だということもできる。であれば、インターネットでよく使われるURL(Uniform Resource Locator)を拡張した形で、あらゆるメディアが表記されてもいいのにと思う。

それがXML(Extensible Markup Language)だったんじゃないの?とか、これじゃないの、あれじゃないのという気ももちろんする。ただ、アイディアが普及期に入り、私たちにとってに当たりまえ過ぎる状況をつくるというところまでは至っていないような気がするのだ。

取りあえず果報は寝て待て。先のリフロー型電子本でのページ表記の問題のように、一歩一歩なのかなとも思う。

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