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一言居士

一言居士。何にでも自分の意見を一つ言ってみなくては気のすまない人。うん、たぶん、私はそうなんだと思う。ドロシーにも「テレビを見ながらぶつぶつと坂戸の中心で言っててもしょうがないでしょう」と言われるよ。

しょうがないと言ってはいけないのかい?

そもそも、たとえば、愚痴っていうのは、言ってもしょうがないことをいうだろう。君だって「家族ぐらいには愚痴を言えばいい。家族にも愚痴が言えなくなったら終わりよ」というじゃないか。

まぁ、なんにしろ、一言なにかを言わないではいられない人は私に限らず少なからずいる。たとえば、一言ネガティブなことを言わないと気がすまない人とか。

愚痴は言ってもしょうが無いこと。でも、愚痴も言えない世の中は世知辛い。だから、世の性格の良い人は愚痴を黙って聞いてくれる。そして、「そうだね」「そうなんだ」と相槌を打ってくれる。

ところがこれに甘えて、常に愚痴を言い続ける奴が現れる。私はそれでも愚痴は言わないようにしている方だから、代わりに「糞」と言う。もちろん《糞》とは体内から排出される食物のかすのことだよ。だって《糞》とは健康のバロメーターじゃないか。大事なことだよね。

で、一言居士である私にも宿敵ともいえる一群がいる。一言口を開けばネガティブなことを付け加えずにはいられない手合いだ。

こういう輩は元々の性格だから、なかなかどうにも変わらない。なので最初は我慢して聞いている。それでも毎回これだとさすがにうんざりする。人情とはそういうものだ。

当人はきっとそれを愚痴だと思っていて、別にネガティブな怨嗟の空気を周囲にまき散らしているとは思っていないのだろう。ただただ、生きていく上での不平不満、自分の中に生まれた辛い気持ちを吐き出したいからであり、それの辛さを周囲にも理解してほしいという気持ちがあるのだと思う。

もちろん、そういう気持ちには同情します。ネガティブなことを蜘蛛が糸を吐くように言わないだけで私もまた類似であるという自覚はあるのです。

でも、そういうことが続けば、周囲は少しずつ鼻白んでいく。しかし本人は理解できない。理解できないというよりも感じられない、気にならない。

感じられたら「あらあら」といい加減なところで止めるはずだろ。でも、本人はわかっていないから止まるはずがない。周囲はさらに鼻白む。挙げ句の果てに「誰もわかってくれない」と愚痴り出す。これをネガティブ・ケイパビリティという。嘘である。

これをネガティブ・ケイパビリティというのは嘘八百だが、これを愚痴の押し売りという。そういうのくらいは許してほしい。

押し売りだから、買う奴はいない。はずなのだが、ご新規さんはどこの世界にもかならずいてうっかり買ってしまう。売る奴も売る奴だが買う奴も買う奴だ。一言居士の私は思う。

押し売りは買う奴がいなくなれば商売あがったりでなくなるはずだが、浜の真砂のなんとやら、買う馬鹿も尽きない。もうこうなるとあきれて何も言いたくなくなるが、そこが世間の辛さ。避けても避けても自然と耳に入ってくることまでは避けられない。

だから、もうこうなったらこっち側を変えるしかない。愚痴であり、ネガティブをまき散らす大蛇のようなものだと相手を考えるからこっちでも価値判断が生まれて一言いいたくなってしまうのだ。だから、これは愚痴ではないと思うしかない。

一番いいのは、何を聞いてもワンワン・ニャンニャンと脳内変換してしまうことだ。ワンワンでニャンニャンがワンワンでもうすっかりニャンニャン。こうなると腹も立たないし苦にならない。こうやって世界は平和になっていく。

というのをワンワンと変換して読んでほしい。できれば五月蠅い駄犬のスピッツの鳴き声で。今日はネガティブな日なのだ。

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