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日記的であって日記的でない不思議さ: ちきりん 『「Chikirinの日記」の育て方』

著者が自身のブログとその運営についてこれまでどのように考えてきたかを記した本。日々数万人の読者が訪れるブログの運営記録というよりも、ブログやブログを取り巻く状況について著者の価値観と姿勢とが記述されている。読みやすい文章と一貫性のある視点はネット社会との付き合い方として読んでも価値が高い。

Kindle本として表紙のデザインから構成まですべて著者自身が行っている。そのためか章立ては44章と通常の書籍に比べて多い。しかし、猥雑な印象をまったくない。章のタイトルはそのままその章のメッセージになっている。各章は短くメッセージのシンプルさと明瞭さとを際立たせている。

本書はブログ運営のためのノウハウ本ではない。しかし、著者の判断や選択は常に「自分は何を大切にするのか」「自分はなぜそうするのか」「自分はなぜそうしたのか」という揺らがない問いとセットになっている。その姿勢はたとえ著者とは異なるネット社会との付き合い方の価値観を持っていたとしても十分参考となるだろう。その意味で本書はブログを持つ万人のための本質的なノウハウを記述しているといえる。 

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本書はどこか日記的だ。よいわるいということではなく著者の視点は常に「私」という「個」から出発し「私はこう思う」というスタイルに根ざしている。「自分の思考を言語化し構造化するとともに、そういう作業自体が楽しいのです」と著者はいう。自分という閉じた空間がきちんと存在しているという意味で日記的なのだ。

日記的ではあるが雑駁な印象や思いを書き連ねたものではない。言葉の方向が自分自身に向けられていない。誰かに届けられるべきものとして伝えられるメッセージの内から外へのベクトルは明確だ。著者のブログと同様、外からインプットには頼らず、あくまでも自分の中の「このことを伝えたい」とが形化している。

それゆえ記述の方法論はわかりやすさと構成への配慮に集約される。雑感で甘んじることもない。伝える手段や伝えたい対象が状況で揺らがない。やわらかなレトリックとはうらはらにエッセイや雑感が持つ曖昧性は小さい。自身のブログについての思いと、ブログとともに歩んできたこれまでの経緯というテーマから離れることはない。そこにはつねにことばを届けたい確固たる人たちがいる。

20世紀的な効果・効率の世界を否定もせず、かといって全面的に肯定するでもなく、ただ通奏低音として「自由」「無理をしない」「気取らない」といった軽みがある。二項対立的な議論に囚われたりもしない。あえてジャンルを規定しようとすれば「ノーサイド」というまったく新たなジャンルが必要になる。

日記的であると同時に自由であり、同時にことばを届けたい確固たる人たちいる本書を読んで思い浮かぶのはなぜか赤毛のアンのこんなことばだ。

これから発見することがたくさんあるって、すてきだと思わない?あたししみじみ生きているのがうれしいわ―世界って、とてもおもしろいところですもの。もし何もかも知っていることばかりだったら、半分もおもしろくないわ。そうでしょう?そうしたら、ちっとも想像の余地がないんですものねえ。(村岡花子訳『赤毛のアン』第2章)

本書は、ノウハウ本でもなくエッセイ集でもない。ネット社会への評論としても読めるしブログというテーマを借宿とした生き方の指針を書いた本とも読める。論旨が明確で文章が平易であるために、電車の中などでもスラスラと読めてしまうという意味では雑誌的であり、ネット社会の時代のマーケティングについて思考を深めていく素材としてはテキスト的だ。フィクションでは当然ないが、ノンフィクションというには事実よりも価値観に重きが置かれている。そんな不思議な本だ。


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