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現代音楽史の入口

現代音楽に関して「何から聞き始めたらよいのかわからない」と思うのは、おそらく私だけではないだろう。

音楽ライターの小室敬幸さんに尋ねてみたら、「これまでにその人がどんな音楽を聴いてきたかによっても変わるけれど、自分聴いているものとつながるもの、自分が聴いてきたものと近いところを探して聴くとよいです」という主旨の言葉が返ってきた。

小室さんの答えを聞いて、私という主体と現代音楽という《コト》との関係性のことを思った。両者が何らかのアフォーダンスを形成していると思えば別に《わかる》とか《わからない》とかいう範疇の事柄ではなくなる。私が無手勝流に絵をみるときと同じだ。私にはそう思えた。

「もし聴くなら、例えば・・・」と言いながら小室さんがあげたSteve Reichの『テヒリーム Tehillim』(1981年)を聴いた。

Wikipediaによれば『テヒリーム』とはヘブライ語で"詩篇"、"賛歌"の意。アメリカのユダヤ人であるスティーヴ・ライヒが『旧約聖書』のヘブライ語テキストに基づき1981年に作曲した声楽曲。

そうか《詩編》なのか・・・と思う。去年、苦労しながらだったが旧約聖書の読書会に参加した。不思議なつながりを感じた。

音楽を左脳で聴くというのはおかしな話だろうか。少なくとも私は絵を見るとき左脳で少しずつ近寄る。私は直観派ではない。Steve Reichのことをまったく知らなかった私だが、Tehillimを聴いていると彼が《何かをしたい》と思っていたことがぼんやりと伝わってくる気がする。

小室さんは「現代音楽には人を感動させることへの反省に根ざした部分があるのです」とも言っていた。先の2つの大戦において化学と物理が原罪を負った。音楽もかと思う。

そう考えると『西洋音楽の歴史』よりもさらに生々しい形で『現代音楽』は私たちが生きている今という時代の様相を表していると言えるかもしれない。小室さんが『現代音楽を知ることが、他ジャンルの音楽や西洋芸術全般の理解に繋がるのは何故か?』と語る文脈もそこにあるのだろう。

『現代音楽史-闘争しつづける芸術のゆくえ 』(中公新書, 2630)

長い歴史をもつ西洋音楽は、二十世紀に至って大きく転換した。シェーンベルクとストラヴィンスキー『春の祭典』に始まり、多くの作曲家が無調音楽、十二音技法、トーン・クラスター、偶然性の音楽……といったさまざまな技法・実験を繰り広げた。それ以前と異なる現代音楽の特徴として、政治や社会、思想、そして絵画など他の芸術分野との結びつきが強いことが挙げられる。音楽から二十世紀という時代を描き出す。

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