"わかる"ということ(その2)
「失敗学」を提唱した畑村洋太郎さんは変わったおじさんだ。年齢が自分よりも上の人をつかまえて「変わったおじさん」というのもなんだかだが、その印象は拭えない。もちろん、「変わったおじさん」というのは誉め言葉として使っている。
ITの分野では"ユニバーサル・ユニーク"という言葉がある。空間的・時間的に一意な識別子をさしていう。私は"人"にもユニバーサル・ユニークネスが存在していると思う。
別に"世界にひとつだけの花"ということを言いたい訳ではない。この世の中には「ああ、確かにこんな人は世界中を探してもこの人しかいない」という人にときどきだが出会うということを言いたいのだ。
畑村さんはその一人だと思う。勤めている会社ではずいぶんと長い期間、畑村さんの「失敗学」の塾が開かれていて、私もその"門下生"の一人なのだ。塾では半年ほどの期間、畑村さんの話をみっちりじっくり聴くことになる。そして、思うのだ、「ああ、この人はユニバーサル・ユニーク」だと。
下記は、ずいぶんと前に日経夕刊に連載されていた畑村さんの文章の一部だ。
この文章をみると、別に普通だと思うかもしれない。しかし、微妙に違うのだ。畑村さんという人はこの当たり前とも思える一つの帰結を、自分で編み出すのだ。"結論に至るまで徹底的に考える"というのは修辞的な表現ではなく、しかもそのためには方法を編み出すこともいとわない。そして、その方法論は、ちょっと本を読んでいれば「ああ、あの手法の応用かな」と言いたくなるようなことであっても、畑村さん自身は誰かに聞いたり読んだりしたのではなく、自分で考えて、自分で編み出してしまったものなのだ。
畑村さんは、別に"巨人の肩に上に乗る"という学問のあり方を無視しているわけではない。しかし、"考える"という行為については、徹底的に"自分で"なのだ。
だから、畑村さんが"わかった"というときは、本当の意味でしっかりと自分で考えた結果なのだ。
『直感ではなく直観』、『「直感」とは不断の練習』。畑村さんらしい言葉だ。そして、耳が痛い。
直感に頼るのではなく、直観を育くむような、そんな風に、私はなりたい。そんなことを改めて年の瀬に思うが、思うだけで終わってしまうのが私の弱さであり、畑村さんとの彼我の差なのだ。
だから畑村さんはすごい人であり、そしてちょっと「変わったおじさん」なのだ。
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