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クッキーの正しい食べ方

お煎餅やクッキーを食べるときのテーブルマナーとはなにか。

ドロシーは、『それは吸いながらでしょうよ』という。ドロシーは彼女のおばあちゃんにそう言われたと言う。そして、『ああ、また吸ってしまった・・・』とつぶやきながらクッキーを食べる。

「そんなねぇ~」と私は思う。しかし、こういうことは伝染する。そして、何気なくクッキーを吸いながら食べている自分を発見して動揺する。

脚本『すいか』(木皿泉)にこんなシーンがある。

早川家・ダイニング テーブルに基子の為の食事の用意。 その向こうのリビングでは、梅子が煎餅を吸いつつ(なぜかと言うと、クズが散乱するのが嫌だから)食べながら、テレビを見ている。

木皿泉『すいか』

この奇習は、どうやら自分たちだけのことではないらしい。だから思う。お願いだから、納豆には砂糖を入れないでほしいと。

『砂糖の入った納豆っておいしいよね』って、子供に繰り返し同意を求めないでほしいと。お正月に、おじいちゃん、おばーちゃん、おばさん、ドロシー、みんなで楽しそうに砂糖入り納豆をご飯にかけて食べないでほしいと。

初めてドーキンスのミームの話を聞いたとき、『げ、トンデモ?』と思ったものだ。いまでも「何でもミーム」みたいに言われると、ちょっと疑問を感じる。

ただ身近に、『クッキーを吸いながら食べるという家族』や『納豆に砂糖を入れるという家族』の強い世代間伝搬力を目撃すると、『むむむ、ミーム、侮りがたし』とも思えてしまう。

いずれにせよ、納豆に砂糖は入れないでほしい。頼むから・・・・と。


そういう、どうでもよいことが家族なのかもしれない。

だから、『これはただの夏』の《ポテトはトレーに広げて食べる》は、ある意味、家族の象徴なのかもしれない。そう考えればこの小説は家族の物語ということになる。


家族って何だろうと思う。だってドロシーと早川家の梅子は、どう考えたって家族じゃない。私の中ではドロシーと梅子は同じ系列の人だけど、やっぱり家族とは違う。

強いていうなら、二人は同じ空気の人。場所も時間もずれていて、実際に出会うこともすれ違うこともなかったけれど、同じような空気をまとい、同じようなことを感じていた人。家族ではないけれど、見えないつながりのある人。

そういう人たちはは確かにいる。その感覚は”Anneを知るひと”というときの感覚に近い。

そして、そういう人たちがいるということが、世の中を見る目をちょっと暖かく、そしてちょっと嬉しくしてくれる。

ちなみに私は《ポテトはトレーに広げて食べる》派。

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