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語り口の気持ちのよさ:櫻庭由紀子『落語速記はいかに文学を変えたか』

読んでいて気持ちのいい本がある。桜庭由紀子『落語速記はいかに文学を変えたか』もそんな一冊かもしれない。

『落語速記はいかに文学を変えたか』はジャンルからいえば評論・文学研究ということになるのだろう。明治期の落語の口演速記と二葉亭四迷や夏目漱石といった『国語便覧』にもかならず記載のある人々の言葉の関係から始まり、高座を読む当時に人々の世相や人気、あるいは高座の再現と文学性など、読んでいて、「ああ、そうだったのか」「そういえばそうかも」「それは知らなかった」と膝ポンの連続なのだ。

しかも、記述することばは四角張っておらず、熱量があり、「ああ、この著者は落語の《ことば》や《語り口》、その向こうにある人々の活き活きとした息づかいが好きなんだな」と感じさせてくれる。言葉を選ばずにいえば、本人もチラチラ書いてはいるが、オタク的饒舌さが気持ちがいい。

手元の『国語便覧』(数研出版社版)の索引には《落語》という言葉はない。言文一致体についても「明治文学の流れ」の「近代小説の始まり」の項に素っ気ない記述があるだけだ。

政治小説の流行と同じ明治10年代後半頃から、文学を見直そうという小説改良運動が出てきた。それまでのような啓蒙をねらった功利的な文学ではない、西欧近代文学の本質的な理解に基づいた新文学が目指されたのである。坪内逍遙は文芸評論『小説神髄』で勧善懲悪一辺倒の戯作文学を否定し、人情・世態風俗の写実こそ小説だと論じた。写実主義を唱えたこの評論は、近代文学の基本であるリアリズムを初めて理論立てた点で意義深い。だが、実作『当世書生気質』は、文体も心理描写も貧しいものだった。これに対して、二葉亭四迷は文芸評論『小説総論』を書いて逍遙の理論の不足を補い、小説『浮雲』で言文一致体を用いた心理描写によって近代の人間像を描くことに成功した。

『国語便覧』(数研出版社版)「明治文学の流れ:近代小説の始まり」

これはこれでもちろん正しいのだろう。そして二葉亭四迷はエラい人なのだと誰だって思う。少なくとも私は思う。しかし、本書の著者は二葉亭四迷の『余が言文一致の由来』を引用する。

もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何かひとつ書いて見たいとは思ったが、元来の文章下手だ皆目方角が分からぬ。そこで、坪内せんせいの許へ行って、何(ど)うしたらよかろうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知っていよう、あの圓朝の落語通りに書いてみたら何うかという。

二葉亭四迷『余が言文一致の由来』

だいぶ印象が違う。いや、どっちが正しいということではない。『国語便覧』も正しいのだろう。あるいは二葉亭四迷先生が謙遜をして言っているのかもしれない。でも、著者は、二葉亭四迷が圓朝の速記に加えて参考にしたのが式亭三馬の戯作だという。ちなみに『国語便覧』にも式亭三馬は『浮世風呂』の作者としてちゃんと載っていて、「浮世風呂:江戸庶民の社交場であった銭湯で交わされる会話から、人々の姿をユーモラスかつ繊細に描写した作品。江戸語の研究資料として活用されることも多い」とある。

で、四迷先生はと言えば、自らの話し言葉の東京弁の語尾問題に悩んでこういっている。

参考にしたものは、式亭三馬の作中にある所謂深川言葉という奴だ。「べらぼうめ、南瓜畑に落こちた凧じゃあるめえし、乙うひつからんだことを云いなさんな」とか、「井戸の釣瓶ぢやあるめえし、上げたり下げたりして貰ふめえぜ」とか、「紙幟の鐘馗というもめツけへした中揚底で折がわりい」とか、(中略)當時、坪内先生は少し美文素を取り込めといわれたが、自分はそれが嫌いであった。

二葉亭四迷『余が言文一致の由来』

四迷先生、正直すぎ。『国語便覧』ちょっと盛ってないか?

というように、『落語速記はいかに文学を変えたか』は私の既成概念とまでは言わないが、ある種の思い込みを気持ちよく解除してくれる。

漱石についても「漱石は講釈や落語などの話芸を好んだ」とし、『吾輩は猫である』の中でも、「口上みたいだぞ」とふざける。

「さていよいよ本題に入りまして弁じます」「弁じますなんか講釈師の言い草だ。演説家はもっと上品な詞(ことば)を使って貰いたいね」と迷亭先生また交ぜ返す。

夏目漱石『吾輩は猫である』

また明治に演芸速記が非常に流行ったことも『落語速記はいかに文学を変えたか』の著者は指摘する。つまり、一貫して「演芸速記と言文一致の誕生は関係があるのだ」と論じている。私はこの意見に同意する。そういうもんだよなと思うのだ。そして『国語便覧』には載らなくても、「圓朝とか、当時の落語家は偉大だってことでいんじゃね?」「落語の語り口は、四迷や漱石を含め、当時の人々に支持されたんだろうな」と思う。

『落語速記はいかに文学を変えたか』の気持ちの良さは、まえがきに「写された言葉の集合からしか得られない熱量が、明治、大正、昭和の演芸速記にはあるのだ」と宣言すると同時に、著者自身の演芸速記にかける熱い思い、すなわちオタク的熱量が嫌みなく描かれていることにもある。そして著者のその熱量は評論・文学研究の本なのに、ときどきポロリと顔をだす。

四迷にとって、明治の文壇に革命を起こした現実はリアルではなかったのだろうが、その生き方こそべらんめえ調の落語みたいにリアルに満ちている。

夏目漱石というと・・・エリートでハイカラな学者先生というイメージが強いのだが、実は「洋食も西洋の風呂も便所も全く面白くないし、早く茶漬けと蕎麦が食べたい」と、ロンドンに向かっている(帰りではない)最中にぼやいてみせるガチの江戸っ子だ。

因みに、知ったかぶりする者を「やかん野郎」とか「酢豆腐野郎」というのは落語から来ている。といっても、最近ではとんと聞かない。

私が高校時代にバス停の待合小屋で読んだ圓朝の『怪談乳房榎』の初出は、「東京絵入新聞」である。挿絵は圓朝が贔屓にした芳幾だ。芳幾は『乳房榎』を聴きながら挿絵を描く役目を忘れてボロボロと涙をこぼしたという。わかる。私も高座に脳内変換して泣いたもの。

文章の響きを重要視するのは、紅葉の弟子・泉鏡花も同様だった。鏡花は明治33年に発表した「高野聖」が評判となり、以後長短300編以上の作品を文芸雑誌や新聞に連載する。その作品が持つ幻想性と倒置法を用いた文体は、読み聞かせる際に独特の鏡花の世界は引き込んでいったのだろう。読んで面白い、聴いて楽しい、新しいエンタメメディアが確立した。

引用もキリがないが、「エンタメ・脳内再生。やっぱりこれが出来なきゃね」と私は思う。

好きであること、すごく好きであることは、ある種の没入感を伴う。リアルが一番。もちろんそうでしょう。それを知っているかどうかはとても大事だと思う。でも、リアルだけじゃ足りない。脳内再生して何度でも何度でも楽しめる。それが好きのバリエーションなのだと私は思う。それあっての分解能でもある。

『落語速記はいかに文学を変えたか』の著者の語り口の気持ちのよさは、著者の「好きだ! 楽しい!」という気持ちが溢れているからに他ならない。

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