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再読の効用

年末に旧約聖書を読了したので、お正月に橋爪大三郎さんの講演録画を見、松の内で『教養としての聖書』を再読した。

実は「教養としての聖書」を最初に読んだときは、正直「うーん、ピンとこない・・・」という感想だった。しかし、旧約聖書の通読後に講演の口調を思い出しながら読むと、最初の印象とはずいぶんに違うことに気づく。

ここでいまさら「教養」の定義をしようとは思わない。ただ、教養の属性のひとつには間違いなく「変化」というキーワードが含まれていると私は思う。旧約聖書を通読する前と後では、私の中の何かが確実に変化している。

その何かが何なのか、私の中でまだ言語化されていない。強いて言葉にすれば世界観の拡がりかもしれないし、詩と祈りということかもしれない。あるいは「わかっていること」と大事にしたがる私の中の傲慢さへの気づきかもしれない。

結局、言語化できないものが何なのかよくわからない。この先わかるかどうかもわからない。

それでも良いのだと思う。少なくとも私はそんな風に思って、再読した橋爪大三郎『教養としての聖書』を閉じた。


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