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記憶されるものの未来

体験は社会が記憶として保有する社会的資本だ。25年前の地震もそうだった。あの日を境にいろいろなものが変わった。東北の地震が若い人と社会に与えた影響も少なくはないが、1995年には現在のさまざまな事象の起点があり、20世紀と21世紀との間の変曲点がある。

2020年も同じように記憶されるのだろうか。街が封鎖され、地下鉄や飛行機が止まり、街の賑わいが消えたあの日として。

1995年の地下鉄サリンによるテロ事件が、もし機関銃によるテロであれば人々はもっと強く現実を認識し衝撃を受けたことだろう。空撮のヘリから無数の血まみれの人が路上に倒れていたのだから。実際に築地の聖路加病院は野戦病院のような状態になったという。見えないものは掴みにくい。今回の新型コロナも同様だ。

一方で、それはこれまで封殺されていた新しい息吹を解き放つかもしれない。長いあいだくすぶっていたオープン・データの価値と重要性は、新型コロナによって人々に強く認識されていくかもしれない。仕事もトップダウンやリアルだけでは立ち行かなくなり、強くオンラインにシフトするかもしれない。そして、自律分散でないとうまくいかないオンラインの本質が社会に大きなパラダイムシフトを生むかもしねない。

さらには、大学を含めてオンラインでの学習体験・教育体験が増え、新入社員教育もテレワーク前提ということになり、社会全体に「リモートで作業や仕事をすることが当然」というテレワーク・ネイティブが増えていくかもしれない。

ネットの3rdインパクトとは何だろう。

もしかするとそれは、コミュニティによる学習の解放かもしれない。新型コロナは私たちに多くのことを半ば強制的に学ばせることだろう。そのコミュニティとしての体験は、ネットの力によってさらに広く共有される。それは新しいタイプの《学習》の時代の到来を意味するかもしれない。そして、次の世代に向けての社会のレリジエンスを高めてくれるかもしれない。

いかなることがあるにせよ、すくなくともそこには新しい学びがあるはずだと思う。

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