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わかりたい

わかりたいという気持ちは誰にでもある。わかろうとする気持ち、わかるための努力、そういったものが人には大切なのだと教えられてきた。それはその通りだと思う。わかろうとする気持ちや努力を失ってしまってはいけないと思う。そう信じてもいる。

けれども、どんなことでも、ある一定の限界を超えると、そのもの本来の価値や意味よりも、その副作用ともいうものが生じる。過ぎたるは及ばざるがごとしとは、とても正しい命題といえる。

あるいは、過剰さが別の方向に向かう場合、及ばざるまで及ばなくても、なんだか奇妙なことになることもある。そのような方向やずれは、ある種の《病》ともいえる様相を示すこともある。

たとえば、わかることにおいて共感こそ理解のすべてという方向への展開だ。そのためにWikiやSNSの情報を漁り、関連書も読む。でも、それは単に共感ポイントという接点を探すための営みであれば、それは本当にわかるための行為なのだろうか。

たとえば小説を読むとき、登場人物に感情移入ができるかでその小説を理解した共感できたと判別しようとする態度がそれだ。この小説が面白かったかどうかはすべて《私の感じている視点との量》という共感量で測られることになる。

それはそれでよいのだけれど、やっぱりなんだかなと思う。

その真逆の方向にも振れることもある。つまり、すべてはわからないのだから、それは放置すればよく、《考えるな、感じろ》のような、わかったようでわからないが、わかったような《お気持ち第一主義》への偏重だ。

それは高じて、わからなければわからないほど何か意味がある、いや、意味がないことに意味があるとする奇妙な態度に現れる。まぁ、若さというか、年配者もだが、《俺だけがわかっている》というような感傷はエラく気持ちがいいものだ。私もそう思う。しかし、それはわかるということについて真剣に向き合っているのではなく、まぁ、有体にいえば、わからない自分を合理的に胡麻化しているにすぎない。

いずれも、それは当人の問題だし、生活を行う上で支障はでない。だから、そもそもこれらを《病》とする定義そのものが歪んではいる。しかし、そういう傾向性を持った態度や言説が増えつつあるという状況も現実に存在していると思う。

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