見出し画像

デイ・アフター・トゥモロー

"The Day after Tomorrow"(デイ・アフター・トゥモロー)は好きな映画で、テレビなどでやっていると必ず見てしまう。先日もBSでやっていたので録画して、結局最後まで観てしまった。ドロシーには「また観てんの?」と馬鹿にされている。

確かに4回か5回は観ている。まぁ、ある種のハッピーエンドだし、ニューヨークを襲う津波シーンは迫力があるし、そもそもこの手のディザスターものが嫌いじゃないんだ。

"The Day after Tomorrow"が米国で公開されたのは2004年だ。記憶が定かではないが、当時は気候変動に関する科学的信憑性に対する懐疑論も根強くあり、温暖化の危機を過剰に強調している等の批判も多く聞かれた。

一般の私たちにしても、1997年の京都議定書以降、地球温暖化の現象が広く認識され、その原因や影響についての理解が深まる一方で、懐疑論を聞けば、「そうかも」と心が揺らいだ。

メディアも地球温暖化に対する懐疑的な見解を報道におけるバランスを取るために紹介し、そんな風に反対意見が取り上げられることで、科学者の間でのコンセンサスが十分に形成されていないという印象が醸成されたことにも一因はあるかもしれない。

そんな中での"The Day after Tomorrow"はデザスターものとしてもよく出来ていたし、インパクトがあった。北極海の氷の融解により本当に映画で描かれてたようなスーパーハリケーンが起き、極めて短期間に氷河期に突入してしまうかどうかは実はそれほど重要ではない。『日本沈没』と同様、あるSF的な嘘を仮定したとして、そのときに本当に起きそうな一連の事件がSFとしての面白さなのだから。

大げさにいえば、SFの役割とは、シナリオプラニングの仮説と同じだ。未来は予測できない。しかし、想定されうるあるシナリオが発動した場合、こうそのとき人はどう振る舞うのか。私たちが持っている価値の意味は変化するのか、社会はどう影響を受けるのか。そういったことに思いを巡らすことに価値があるのだ。

2024年現在でいうと、2004年当時にくらべ、地球温暖化の進行とそのその主な原因が人間活動によるものというコンセンサスはだいぶ広がったと思う。

けれどもそれには20年が必要だった。20年経っても決着しきっていないともいえる。

かなり科学的ともいえる地球温暖化という事案についてもこういう状況だ。ましてや因果関係が複雑すぎること、政治的にも立場の違いが強いことがらについては、収束が起きにくいのは当然ともいえる。収束するというシナリオ自体が、あり得るシナリオのほんの一部でしかない。また、たとえ、特定の見解にある程度収束したとしても、その方向自体が間違っていたと振り返って思うことも多々ある。

そんなことを、"The Day after Tomorrow"を観るたびに思う。

訪問していただきありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い申し上げます。