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やりたいこと100

Makoto Okada

今年になって半年が過ぎた。

年の初めに「やりたいこと100ー変化する時代の目標の立て方」というイベントに参加した。

「ToDoではなく、やりたいことを書く」というのがなかなかに難しく、どれだけ自分はいろいろなものに囚われて生きているのかと思う。

ナオミ・フェイルの「バリデーション」という本を読んで以来、自分の子どもの頃の思い出や記憶とどう折り合いをつけていくかをよく考える。そして少しずつ、ひとつひとつ、自分の中の記憶や、あのときのこだわりとの和解を続けている。どんな和解をしてるかというと本当につまらないことだ。

たとえば、私はずっと"石田純一"が嫌いだった。モテるカッコいい奴が嫌いというのはひがみ以外の何ものでもない。しかし、そんなことは知ったことではない。ずっと「敵認定」でロックオン。

でも、なぜ嫌いなのか。たぶん、"石田純一的空間"には自分の居場所がないということが哀しかったから。そんな子どもの頃の記憶に突き当たる。

そこにたどり着いたとき、「まぁ、いいか」という気持ちになれた。私は私の中の"石田純一"と和解ができた。

たとえば、私はずっと"養老孟司"が嫌いだった。まっとうなことを言っているような感じで論理飛躍するところが大嫌いだった。"石田純一"同様、長らく「敵認定」でロックオン。

でも、なぜ嫌いなのかを突き詰めていくと、自分は自分の弱さを守るために論理という鎧で武装してきたから。その鎧を守るために、私は理詰めでない"養老孟司"を敵とみなしていたのだ。

でもまぁ、あの人は私よりもかなり年寄りの全共闘以前の戦中派だし、論理なんかをすっ飛ばしている酔っ払いの戯言みたいな風に思えば腹も立たない。なにより、「そういうこともある」というようないい加減さが"養老孟司"の身上なのかと思えば、なんだかどうでもよくなる。私は私の中の"養老孟司"と和解ができた。

やりたいこと100は、「自らの欲望」を素直に認めることなのだと思う。
それは、自分の軸を発見すること。欲望と言ってしまうと生々しいけれど、もう少しソフトにいえばニーズだ。「他人のニーズ」ではなく「自分の中のニーズ」。

自分の中のニーズは、先ほどの和解の話と同じで、子どものときの些細なことを種にしている。フロイトの「幸福とは幼年期の夢を成年期において実現することである」かどうかはわからない。そうかもしれない。

せっかく大人になったのだから、というよりもだいぶ歳を重ねてしまったのだから、子どものときよりももっと自由でいたい。

そのためには自分の中の子どもの頃からのいろいろな思いと和解したり、成仏させたりもしないといけない。私のリストはそんな和解や成仏で満ち溢れている。

捨ててしまうのもひとつの方法だとは思う。捨ててしまえば、それとは別の大事なものに時間を使える。

リストに書き出して、実際にはいつまでもやらないのであれば、それは捨ててしまってもいいものかもしれない。

コンマリ理論だ。「ああ、あのとき、そうしたいと思ったけれど、そう思ったあの時間の自分に感謝と慈しみをささげ、さようなら」。

リストを書いて思う。「私は何をしたいんだろう?」と。

でも、それももしかすると「したいものがなければいけない」という呪いかもしれない。したいことがなくたって、お天道様は律儀にまた東から登ってくることもわかっている。

リストを書くときにちょっと工夫もした「〇〇をして△△する」のような感じ。〇〇が行為で△△が感情。△△がかなりルサンチマンに満ちているのは、きっとわたしの性格だろう。残念なこと。

それでもそのルサンチマンを認めてしまえば、だんだん楽しくなってくる。楽しくなって、あれがしたいな、これがしたいなと思い始める。心の石田純一とは既にかなり仲良しなので、一緒に島にでも行ってみるのもよいかもしれない。

私のやりたいこと100のリストは、そんなこんなのいろいろなことが駄々洩れ。だから内緒。でも考えることは楽しかった。

だだ漏れで何が悪いっていうのだ。

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Makoto Okada

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