見出し画像

日記帳

日記帳にB5の厚めの大学ノートを使っている。予定以外の手書きのすべてをこのノートに書いている。私にとっての日記帳だ。

日記は苦手という人には絵日記風がおすすめかもしれない。子どもが小さいころは私も絵日記風の日記をつけていた。といっても、デジカメで撮ったスナップ写真を普通紙に印刷し、それをぺたぺたと貼り付けるだけの簡単なものだ。

絵日記風の日記帳には、実はいくつかよいことがある。
 1)字をあまり書かなくてもページがどんどん進む。だから『日記を書いている!』という満足感が出やすい。
 2)ノートに厚みが出て、風格が出てくる。
 3)他人にも見せちゃえ、という気になる。
 4)見せることが前提になるので、どちらかというと楽しいことを書くようになる。
 5)カミさんまでときどき乱入して書いてくれる。
 6)日記を書く(日記に貼る)ことがより楽しくなる。
などだ。

日記は書いていて楽しい方がよい。学生の頃に読んだブルーノ・ワルターの「主題と変奏」という回想録には、「若い頃は日記に毎日の反省を書いていたが、それは誰にとっても、特に自分にとって、 まったく益がないことに気づいた」という主旨の一節がある。そりゃぁ、そうだろう。反省ばかり書いていては辛いばかりだ。もっとも、そう思えるようになったのは最近のことだ。

気楽なことしか書かなくなると、実はそれで問題がないことが解る。若い頃の私は『日記』を難しく考えていたのだろう。自分で自分に縛られていた。

最近は、日記とはフローだなと思う。

日記は保管されるべき記録(ストック)ではなく、毎日の生活の断面をそっと切り取っただけのものでしかない。方丈記を持ち出すまでもなく、我々の生活は流れている。断面のようで断面ではない。それが私の考える日記がフローだという意味だ。

手書きでもデジタルでも、過去に書いたものを読み返せば、その頃の自分がそこにいる、しかし、記録としての意味はほとんどない。改めて読み直してみてもなぜ書いたのかを思い出せないことだってある。安部公房の第四間氷期の感想? とても残念なことだが、あら筋を忘れてしまっている。

小林秀雄という人が作曲した「日記帳」という歌がある。歌いだしが「ブーゲンビリアの・・・」で始まる可愛い曲だ。

ブーゲンビリアの 茂みの中に
ぼくは小さい日記帳をかくした
風が吹いて 花がゆれると
あなたのイニシャルが飛び散って
ぼくは窒息しそうだった
朝は必ずその上に 虹がたった

この歌で歌われていることは可愛いが他愛がない。それで別に構わない。改めて読めば「そんなこともあったかな」ということ記憶の断片がそこにある。

それでも、なんだか「日記を書くこと」は楽しいし、好きだ。

訪問していただきありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い申し上げます。