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坂戸日記 2024.03.01

2024年3月1日(金)、曇。

いつも参加している #猫町倶楽部 がカントの『純粋理性批判』を全6回の長編読書会の課題本に選んだこともあり、ここのところ、断片的に時間を使いながらカントを読んでいる。

昨日までに、「序論」「超越論的感性論」「第一版の序文」と読み進み、「第二版の序文」を読了。これで一応、2月中の目標としていた「副読本2冊」(石川文康『カント入門 』、冨田恭彦『カント入門講義: 超越論的観念論のロジック』)+「読書会の課題範囲読了」(巻頭から「I 超越論的原理論 第一部 超越論的感性論」まで)は達成できたことになる。『純粋理性批判』は推奨の熊野純彦訳で読んでいる。

2月中に、3月の読書会までの目標は達成はできたが、本論については段落まるごと「???」という部分もあって、それなりに不完全燃焼。 次の一手として、レジメを書くか、《問読》をするか、わかったところだけ抜き書きをするか、副読本3冊目の御子柴さん(御子柴善之『カント 純粋理性批判 シリーズ世界の思想』)に再挑戦するか。。。

まぁ、できる範囲でバントのように走者の塁を進めるしかないかなぁ。 ああ《音読》っていうのもありかとも思う。

試しに《抜き書き》をと思い、序論について試してみたら、結局、序論の冒頭の段落を写経してしまった。これはこれでよいのだけれど、これではとてもじゃないけれど進まないし、終わらない。

私たちの認識はすべて経験とともに始まる。この点についてはまったく疑いの余地はない。というのも、もし対象によるのでなければ、認識能力はいったいなにによって呼びさまされ、活動するようになるというのだろうか。対象が私たちの感官を刺激して、一方ではおのずと表象を引きおこし、他方では私たちの悟性の活動を作動させて、その活動がこれらの表象を比較し、また結合し、あるいは分離して感性的印象という生の対象の認識へと加工する。この認識が、経験と呼ばれるのである。時間にかんしていえば、だから私たちのうちに生じるどのような認識も経験に先だつことはなく、経験とともにいっさいの認識ははじまる。

『純粋理性批判』序論(冒頭段落)(熊野純彦訳)

その合間に、宮島美奈『成瀬は天下を取りに行く』と『成瀬は信じた道をいく』を読んだ。面白かった。夏の花火を見た後のような読後感が清々しかった。なんなのだろう。不思議と爽やかなのだ。

爽やかならいいか。


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